ひうらさとる『レピッシュ!』

またいつものように更新してないので、こないだやった少女漫画読書会*1のレジュメを貼ってみる
思ったこと
・もちょっとまともに漫画評論なりふつうの評論を読むべき
・それ以前にもちょっと時間掛けて論を練るべき
・言ってることが4年前のこの日記と変わってない(ていうかコピペしている)
・sayukジェネレータ作れるんじゃね?って知人に言われたのはそのとおり


ひうらさとるレピッシュ!』(講談社なかよしKC・全3巻)


1)作者・作品解説
ひうらさとる:1966年、大阪府生まれ。学生時代から漫画誌に投稿し(同じなかよし誌で活躍していた片岡みちると同窓だったらしい)、84年、「あなたと朝まで」で講談社のなかよし誌でデビュー。その後同誌にて『ぽーきゅぱいん』『レピッシュ!』『月下美人』など次々と連載し、80年代後半〜90年代初めの同誌の看板作家となる。それまでセンシティヴな作風が多かった80年代半ばの少女漫画の中に、一種「おちゃらけ」に近いパワフルなハイテンション・コメディを取り入れ、猫部ねこ・早坂いあん・たておか夏希などとともに講談社系少女漫画のその後に大きな影響を与えたのではないかと考えられる(また漫画の中に当時流行したさまざまなファッション・風俗・サブカルチャーを積極的に取り入れていったのもひうらや同時代の岡崎京子小椋冬美らがはじめたことで、当時の読者には新鮮だったのではないか)。90年代後半も別冊フレンド誌で『プレイガールK』『東京BABYゲーム』などのヒット作をものし、その後もYOUNG YOUCookie、プリンセスなど各誌で活躍。07年には、Kiss誌で連載中の『ホタルノヒカリ』がドラマ化され、現在も放送されている。
レピッシュ!』はひうらさとるの初期の代表作。「ふつーじゃない金持ちの小学生」が「レピッシュ」と呼ばれる大富豪の隠れた後継ぎを探して東奔西走する話は一見荒唐無稽で、しかし読者(少女)にとっては1ページ1ページが刺激的なまま突き進む、まさに「漫画的」な楽しさに満ちあふれた作品といえる。またデビュー前のバンド名から拝借したというタイトルだが、その連載が進むと同時にそのバンドもメジャーになり、まさにひうら的世界観と一致するサブカルチャー・シーンを代表するバンドとなったというのも、本作の同時代性を表していて面白い。


2)本論
a)「リアリティ」とはなにか?

のっけから別の作品の話になってしまうが、安野モヨコの代表作『ハッピー・マニア』の文庫版1巻の解説(斎藤綾子)が興味深かったので引用してみる。

「私が中高校生だった昔、少女漫画の主人公といえば、生真面目で不幸で努力家で苛められっ子で、それでもいつも前向き(『ハッピー・マニア』の登場人物で言うと、ひょっとしたら貴子にそっくりな性格かも……)なのだが、なぜか恋愛に関しては絶対的受け身という設定だった。
 ほとんど読んでいないので、全部が全部そうだとは言えないが、当時の少女漫画の最終回は、「自分みたいなダメな女の子には、相応しくないと思っていた素敵な男性」に、それもよりにもよって「苛めっ子が恋心を抱いていた男」に、熱烈に愛情を注がれてハッピーエンドになるのである。
(中略)ダメ女やバカ女が主人公の漫画は、昔も今も腐るほどあるだろう。そういう視点でしか、『ハッピー・マニア』を読めないダメ読者やバカ読者も大勢いると思う。そして、その程度の読み方しか出来なくても「すっごく面白い」というのも、この作品の素晴らしいところだ。
 しかし、解説を許されたのだから、私は声を大にして言う。シゲカヨの存在は、めちゃめちゃリアルでクールなんだ。
 重田加代子自身は、恋愛依存症でセックス好きで、現実感のない漂流者で、親友フクちゃんがいなかったら路上生活者と紙一重のように描かれている。だが実は、彼女の存在そのものが、現実のセックスやら情やら金やらの有り様を、非常に客観的に現しているのだ。」


80年代前半の「センシティヴ」で「乙女ちっく」な少女漫画が、しだいにその「リアリティ」を失い、岡崎京子安野モヨコらを中心とする(今でいうといわゆる「シュークリーム系」の)「ヤングレディース」系少女漫画にとって代わられるようになった、という見方は、例えば大塚英志たそがれ時に見つけたもの』などでも書かれ、少女漫画史(というものがもしあれば)やあるいは実際の少女漫画読者の間でも共通して持っている感覚だと思われる。
しかし一方で、その「リアリティ」の捉え方は一面に偏りすぎてはいないか? という疑問がどうしても残る。斎藤の言う、「リアルでクール」が常に「ダメ読者やバカ読者」に打ち勝つ、あるいは「セックスやら情やら金やら」が常に「乙女ちっく」に打ち勝つ、ということが本当に「リアリティ」なのだろうか? 乙女ちっく的、あるいは少女漫画的「恋愛(純愛)至上主義」を否定しながら、「リアリティのある恋愛」は既に別の「リアルな恋愛至上主義」を構築してはいないか。
岡崎京子ら「ヤングレディース」を少女漫画の後継とする史観は確かに一定の支持を得ながら、しかし96年、岡崎の不遇な事故により創作が中断されると、その停滞があたかも少女漫画全体の停滞のようになり、それは05年頃のメガヒット作品の登場まで続いたかのように思える。「リアリティ」に一元化された少女漫画言論がもしそのオルタナティヴを持っていれば、この「失われた10年」にまた別の進化(少女漫画の、そして何より少女漫画批評の)が生まれたのではないか。そのためには、少女漫画における「リアリティ」というものを再度捉えなおす必要があるように思える。それは例えば、最も「リアリティ」とはかけ離れた、最も荒唐無稽で「バカげた」「子どもじみた」作品として岡崎と同時期に登場した『レピッシュ!』に宿っているのではないか。


b)2人の作家の交錯
よくよく考えると、84年デビューのひうらさとると、85年に初単行本『バージン』を上梓した岡崎京子はほぼ同期の漫画家といっていい。しかしこれまでの少女漫画評論では、その関係はほとんど語られてこなかったように思える(岡崎はもちろんひうらも、当時小学〜高校生を過ごした読者には強く支持され、今でも記憶に残っているという人がおおいというのに)。
レピッシュ!』と同時期に岡崎が連載していたのが『ジオラマボーイ・パノラマガール』で、その21話は特に印象深い。「パン屋襲撃」というタイトル通り、ヒロインが小学生と共に角のベーカリーを襲うくだり。目的は1日100個しかつくらないシュークリーム、しかし襲撃に対し相手はあっさりと要求をのんでしまう。なぜかというと「よくウチのシュークリームはねらわれる」からで、もう17回も「シューゲキ」されたから。強奪犯たちは公園でお腹いっぱいになるまでシュークリームをほおばるという結果。
ところで、このシーンの前にヒロインが小学生に(半分冗談でだが)「東京タワー」をねだる場面があるのだけれど、そこから『レピッシュ!』を想起した読者はどのくらいいたのだろうか? 「平凡パンチ」に連載された『ジオラマ〜』となかよし連載の作品を結びつけた、そもそも両誌を読んでいた人はおそらく少なかったに違いない。しかしそこから「東京タワー」の周りをめぐって、二人の漫画家は奇妙な交錯をつくる。
東京ガールズブラボー』(90-91年連載)8章のサブタイトルはそのまま「東京タワーが灯る瞬間に願いごとをかけるとかなう気がする」で、16歳のサカエは東京タワーを見上げながら「ふしぎふしぎ 東京タワーって みてるだけで元気になっちゃう」(この辺『レピッシュ!』の台詞と交換しても全く違和感が無い)「いつか東京タワーを“東京サカエタワー”と呼ばせる日までガンバルぞ」と心に想う。『レピッシュ!』のチャコが16歳の誕生日に東京タワーをプレゼントされたのと考え合わせるとちょうど対照的で、このシーンはまるで『ジオラマ〜』を描いた漫画家より先に東京タワーを「襲撃」してしまった一人の漫画家のことを思っているよう。東京タワーを好きな理由を「人工的でにせものっぽくぴかぴかしてるから」「昔の人が思い描いた“近未来”っぽいから」みたいな答えをしていたのは、いったいどちらの漫画家(あるいはそのキャラクター)だったのか?
(そもそもが、代官山に下北に浅草六区にと東京中を小学生たちが闊歩する『レピッシュ!』はひうら版88年版『東京ガールズブラボー』なわけで、さらに同じような東京感覚は『東京〜』とほぼ同時期(90-91年)に連載された『月下美人』で描かれ、岡崎と再度シンクロするのだけれど)


2002年に河出書房から出た『文藝別冊 総特集岡崎京子』に吉本ばななへのインタビューが載っていて、これが非常に面白いのでいくつか引用してみる。

―― 萩尾望都さんとか大島弓子さんとか山岸涼子さんの描いてきた少女マンガと岡崎さんのマンガっていうのは、やっぱり明らかに違っちゃっていますよね。
吉本 でも何か、マンガを描きたいって思う気持ちのルーツはその人たちとすごく似ていると思う。世代が違うだけ。
(中略)
―― 岡崎さんはエロ雑誌出身ということもあるけれど、セックスをわりとバーンと描きますよね。それはその前の少女マンガとは少なくとも違うところじゃないでしょうか。
吉本 でもそういうのもあまり変わらないんじゃないかな。昔は単に規制があって、担当の人とかが「困ります」っていう感じだったからで、みんな描けるものなら描いたと思う。(中略)マンガ家の人って、きっとどんな絵でも描きたいんだろうと思うんです。とにかく絵に描きたい、自分の絵で描いてみたいっていう気持ちがあって、だから特に岡崎さんがそういうふうに大胆なことをしようと思ったわけではなくて。


インタビュアーの言はまるで斎藤綾子の『ハッピー・マニア』への解説とシンクロしていて、90年当時の(そして今も変わらない)岡崎京子の受け入れられ方と、00年代の安野モヨコの受け入れられ方の酷似をひしひしと感じてしまうのだけれど、それに対する吉本の返答は非常に明晰に思える。吉本は続けて『リバーズ・エッジ』への違和感を言葉にする。

吉本 やっぱりあれはすごい薄っぺらいと思うんですよ。今具合が悪いのにこんなこと言うのは悪いとは思うんですけど。
―― 岡崎さんとしては薄っぺらいものを描きたかったんでしょうね。
吉本 いや、あれは本気だったと思う。すごく悪いと思うし、そう思わない人も多いと思うけど、私が見た感じだとそういう印象がある。
(中略)
吉本 こういうことを真顔でやるようになっちゃうと、たとえばちょっとあれだけど、たとえば自分の家の中で空気清浄機とか使ってる人たちが、お店で「たばこ吸うのやめなさい!」とか言うようになるのとすごい似てるような、せっぱつまった感じっていうのかな、最後の切り札みたいなのを真顔で出しちゃっているんじゃないかな、表現の仕方に余裕がないっていうか。(中略)照れないでやってみようかなって思ったんだと思うし、彼女にとって自分の中ですごい意欲作だったというのはすごくわかるんだけど、あのときだけは「ありゃ?」って思ってしまいました。


一方で椹木野衣は『平坦な戦場でぼくらが生き延びること』の中で、『リバーズ・エッジ』は(それが受け入れられたようには)「リアル」を求めた作品ではないと言う。

リバーズ・エッジ』を埋め尽くす汚れ、ひび、落書きは、むしろ、この画面が徹頭徹尾「表層」だけのものであり、したがってそこには奥行きがなく、その上にいかようにも「落書き」が可能であることを示している。つまりそれは、彼女の描く世界が「リアル」の回復や現実の告発といった次元とはまったく関係がなく、それらの「問題意識」すらもが、この落書き可能な「表面」の効果でしかないことを、わかりやすく示すものにほかならない。

実は東京タワーは『リバーズ・エッジ』にも1ヶ所だけ現れる。ラスト、山田くんがヒロインと幽霊について話しながら「UFO呼んでみようよ もう一回やってみようよ」という場面、「川べり(リバーズエッジ)」から遠くに小さく見えるシルエット。注意しなければ見逃してしまうくらいささやかな描写だが、まるで荒廃した作品の最後の希望のようにそれは映る。
リバーズ・エッジ』の連載が始まってすぐの93年、ひうらさとるは短編「Baby,逃げるんだ!」で『ジオラマ〜』のあのシーンを完全に反復してみせる。図書室で見つけた拳銃を使って「角の洋菓子屋」のチョコレート(限定50個!)目的に襲撃計画を練る男の子と巻き込まれる主人公(名前はキヨコ)、そしてやはりあっさりと要求をのんでしまう店の人、屋上で気持ち悪くなるまでチョコレートをほおばるシーン、「世の中でたしかなコトなんか この甘さと手ごたえだけだぜ」、そして「同族嫌悪」とかいいながら惹かれあう2人。ラストに書かれる「Where are you going?」の文字。かつて「東京タワー襲撃」に同期しつつ先行してしまったひうらは、未だに「川べり」に佇む(かつて「シューゲキ」をして見せたはずの)もう1人の漫画家のためにその「パン屋再襲撃」を実行したのではなかったか?「逃げるんだ!」と呼びかけた、その相手(の状況)に何を見て取ったのだろうか?
かつて、同じ「東京タワー」を、そしてシュークリーム/チョコレートの甘さだけを「世の中でたしかなコト」=「リアリティ」とした同士が、そして同じ「少女漫画」を描いた同士が、いつのまにかその「少女漫画」から(望むと望まないとに関わらず)切り離されて語られ、別種の「リアリティ」の旗手とさせられ始めている、その状況にひうらは「逃げるんだ!」と呼びかけたのではないか、そう思えてしまう。岡崎の不幸な事故の翌年、ひうらは連載『東京BABYゲーム』を始め、その中で再度「東京タワー」をジャックする少女を描く。その「東京タワー再襲撃」も、やはりその同士に対するメッセージではないかと思わざるを得ない。少女漫画の転換期に現れた二人の作家、片方は常に批評の視線に晒され続け、片方は忘れられ続けた二人の奇妙な交錯(それはまるで、あらゆる作品に現れる二人組みの少女達のようだ)を読み解くことが、その後10年の少女漫画を語る上で必要なのではないか。


3)「コドモ」のリアリティ
ひうら作品にはしばしば、「BABY GAME」という言葉が出てくる。『プレイガールK』に出てくるバンド名がそうだし、『東京BABYゲーム』ではタイトルにもなっている。単行本の中でひうらはこの言葉について「オトナからみたらコドモのアソビみたいにみえるホントはスゴイことをスイスーイとやっちゃってオトナ世界のゲームに勝っちゃう」くらいの意味だと書いている。
レピッシュ!』は、まさにその言葉が示す、ひうら的コドモ・オトナ観を凝縮したような作品だ。コドモなのにオトナよりも権力を持っていて、オトナよりも行動力や知恵でまさり、しかし考え付くことはあくまで「コドモのアソビ」の延長線のような非現実さ。彼らの手にかかれば、普通なら陰謀や暗い面をまとうはずの後継ぎ探しもまるでごっこ遊びのよう(チャコがレピッシュを見つけたらどうするのか?の問いに「みんなで輪になって遊ぶ」と答えたのを思い出してほしい)。面白いのは、普通ならオトナ達の方がもっと冷静に彼ら子供を切り捨て、蚊帳の外に放り出すはずなのに、『レピッシュ!』では逆に瑛司や校長先生などまでがその「遊び」に巻き込まれてしまっている所。すでにそこで「オトナ世界のゲーム」が「コドモのアソビ」のルールに塗り替えられ、反転してしまっている。
「リアリティ」という言葉を使う瞬間、それはすでに「オトナ世界」のリアリティであることが意識せずとも決定されている。その「リアリティ」の中にコドモの存在は全く意図されていないにも関わらず、押し付けられるのは常に唯一の「オトナ」のリアリティだ(作品中何度か登場する、チャコたちが中学生の会話を聞いて憂うシーンが間接的にそれを表している)。ひうらはそこに欺瞞を読み取る、「リアリティ」はコドモにとっては全くリアルではないのではないか? 全く別種の「コドモリアリティ」とでも言うべきものが存在していて、それはオトナからみれば「ばかげたもの」、がらくたのように見えるものの中にむしろ宿っているのではないか、と問い掛ける。『レピッシュ!』はその内容そのままに、コドモたちがコドモたちの「リアリティ」を探し求める、そしてそれが見つかった瞬間あっけなく世界が反転する(東京タワーが自分のものになる!)作品ではないかと思う。ひうらは単純な「リアリティ」に迎合せず、かといってコドモはコドモの世界と分けることもせず、あくまで正面突破で革命を起こしたのではないか。


「BSBY GAME」は、その後多く描かれるひうらのラブストーリィ作品にも、違った様相を持って登場しているように思える。それはつまり、「オトナ的ラブストーリィの駆け引きに、コドモ的な単純なキモチが打ち勝ってしまう」ということで、そういう意味でひうらの思想は伝統的な少女漫画ラブストーリィの描いてきたものに非常に親和性が高い。しかしそれは、単純に「シンデレラストーリー」として批判すべきものではなく、少女漫画的ラブストーリィが90年代にある種の「リアリティ」の罠に陥ったことへのアンチテーゼとして評価する必要があるかもしれない。


(余談だが、ひうら作品にもっとも世界観・思想が近い漫画として、衛藤ヒロユキ魔法陣グルグル』(少年ガンガンコミックス・全16巻)が挙げられるのではないかと私的には思う。『魔法陣〜』はまるでRPGゲームのような展開や描写がなされるファンタジー作品で、92年から連載されたこの作品はゲーム的ファンタジーという以上にゲームそのものを漫画にしたような、全く別種の「リアリティ」を漫画に持ち込んだ作品と言える。しかしそこで描かれる子供達を主人公としたストーリーを「ハートをまもるコドモたちの戦い」と位置づけるのは、まさにひうら的「BABY GAME」的なものと親和性が高く、やはりコドモ的な荒唐無稽さで溢れるその内容は、『レピッシュ!』がそのまま少年漫画的・ファンタジー的世界に変換されたかのように思わせる。ひうら作品に感化された人は読み比べてみるのも面白いかもしれない)


d)「女の子」のリアリティ
レピッシュ!』ではそれほど出てこないが、その後の作品を読むと、ひうらさとるの作品には「女の子」への愛が多分に詰まっているということが感じられる。たとえばラブストーリィにおいて、ひうらは明確な「ライバル」というのを設けない。たとえ最初は嫌な存在として描かれていた相手の少女がいたとしても、物語が進むにつれ必ず主人公と彼女は、あるいは読者と彼女は(あるいは作品と読者は)「和解」する。それは、たとえば『ハッピー・マニア』の貴子や、『リバーズ・エッジ』のルミちゃんの姉の描かれ方とは一線を画している。(もちろん、岡崎や安野の描くように、「女の子」がすべての「女の子」と和解できる訳ではない、という事実も(「女の子」に対して今まで彼ら評価する側が得られなかった)ひとつの「リアル」であるのも確かなのだけれど)
現在連載中の『ホタルノヒカリ』では、「干物女」という言葉が登場する(というか、この作品から新語として生まれて使われている言葉)。Yahoo辞書から引くと、

恋愛を放棄したような生活をしている、若い女性のこと。(中略)職場ではOLらしさを装っているが、プライベートはだらだら生活で、気ままな1人暮らし。男っ気はまったくなく、休日はほとんど寝て過ごし、高校時代のジャージーを着て寝転がり缶ビールを飲むという、ぐうたら生活を満喫している。すこし上の30代の女性たちが「負け犬」にならないよう合コンなどでがんばっているのに対し、肩の力を抜いて「がんばらない」スタイルだ。 
http://dic.yahoo.co.jp/newword?ref=1&index=2005000575


ホタルノヒカリ』の中では、「干物女」と対になる存在として「ステキ女子」が登場する。いつもしっかりした服装とメイクをし、気配りがきき、男の子にモテ、職場の花となるような存在だ。ふつうこういう展開だと、「ステキ女子」は干物女のライバルとなり、干物女ははステキ女子に憧れと嫉妬を抱いて思い悩むのだけれど結局は恋愛なりなんなりの結果を得ることができ、ステキ女子はストーリー中で不遇な存在として扱われてしまう、いわば当て馬的な使われ方をするはずだが、『ホタルノヒカリ』では違う。干物女干物女なりの(そうならざるを得ない)事情があるように、ステキ女子にも同じだけの重さの内面がある(その上で、干物女の主人公が自由に生きているように、ステキ女子も別に何かに縛られている訳でもなく好きなように行動していたらたまたま「ステキ」になってしまっただけなのだ)ことを描き、最後は「干物女ステキ女子 相容れないとこは多々あれど 元はただ今の世を不器用に元気に歩いていってる女のコたち」という言葉に繋がるのだ。
ホタルノヒカリ』が単純に「干物女」のためだけの作品にならないのは、それが結局は「ステキ女子」だけが「女子」とされてきたそれまでの状況をつくってきたものと、ベクトルは逆だが同じ手つきである事を知っているからだ。酒井順子が「負け犬」という言葉で一見「女の子」を区分けしたように見せかけながら、実際はそういった記号化する視点への批評になっているのと、ひうらの「干物女」という語は非常によく似ているのだけれど、上の「辞書」を読む限りそういった認識とは程遠い。区分けし・評価し・研究することのほうが「女の子」に対するリアリティの得方としては簡易な方法であることは確かだ。しかしひうらはあえて困難な道をゆくことで、ただ区分けして自分の「リアリティ」の中にしまって安心するだけの「彼ら」が決して到達できない別種のリアリティを描こうとしているのではないかと思う。「彼ら」のためのではなく、私たちのためだけの真実として。


e)「漫画」のリアリティ
レピッシュ!』を読んでたぶん初めに驚くのは、その圧倒的にいいかげんな、現実離れした(あるいは、現実感をかなぐり捨てた)設定だろう。主人公全員が大金持ちの子供というのもそうだけれど、その「大金持ち」自体も、例えばチャコの父親は「星占いで日本経済界を動かす男」だったり。テレビジャックに山手線ジャック、果ては東京タワージャックまで行われる世界で、しかしチャコと「敵」との戦いは「過激」ではあっても「陰惨」ではなく、奇妙にふわふわとしている。まるで物語の始まる前から世界全体が子供的な世界観にジャックされているようなのだが、それはもしかしたら「漫画だから」「フィクションだから」の一言で片付けられるのかもしれない。
ひうらはその後の作品でも続けて、現実離れした「女の子の夢」のようなストーリーを描き出す。その多くは「普通の女の子」がある日突然人々に注目される存在となる、というシンデレラストーリーの形だ。普通の女の子がファッションモデルになってしまう『月下美人』、普通の女の子が「マイ・フェア・レディ」のように魅力的な女の子に変わろうとする『プレイガールK』、普通の女の子がテレビ女優になる『東京BABYゲーム』……。しかしひうらは、これを単なる漫画的・フィクション的なご都合主義による夢物語ではなく、あるいはたとえそうだとしても、その中にこそ「リアリティ」は宿るのではないか?と問いかけているように思える。たとえば『プレイガールK』の最後で主人公の物語を「変わらないはずの現実を変えてゆく現実」と書くように、現実しか現実と捉えられない思想に抗して、最もいいかげんな、夢物語的な、「漫画的」なものが時にその「リアリティ」を凌駕する、という描き方をする。
『東京BABYゲーム』の3巻では『ベルサイユのばら』をドラマ化しようとする主人公達が描かれるのだけれど、彼らの運命をかけたドラマの最終回に、少女の立てこもり事件が起こって放映が中止されるというアクシデントが起こる。「フィクションは現実には勝てないんだ」という言葉に、しかし彼らは強引に放映を強行する。そして放映された「ベルばら」が、描かれたオスカルの最後の勇姿が少女の心を溶かし、放映終了と共に事件は解決する……。フィクションをフィクションとして信じるからこそ、現実を現実として捉えられる、ひうらの描き方にはたとえば『レピッシュ!』を漫画的・非現実的といってしまうような、あるいは一部の作品を漫画/フィクションを超えたリアリティといってしまうような意識では到達できないような、フィクションと現実、リアリティに対する理解に溢れているのではないか。


ハッピー・マニア』を「バカ」で「ダメ」ではない「リアルでクール」としてしまうことにも、やはり漫画とリアリティの関係への誤解があるように思える。シゲタの振る舞いや思考が「リアル」であるのが確かなのと同じくらいに、その言動や振る舞いは明らかに漫画的な誇張を、そしてそこに宿るひうら的「リアリティ」を含んでいる。「バカ」で「ダメ」として腹を抱えて笑う「バカ読者」「ダメ読者」は「リアルでクール」と捉えるのに比べてほんとうに「リアリティ」を感じていないのだろうか?
そう考えると、「リアルでクール」という言葉はそのまま、少女漫画がその批評の誕生する初期から語られ続けてきた「文学性」という言葉と無縁ではないように思える。「文学性」(と彼らが信じているもの)が一面的にしか少女漫画をとらえず、彼らが認めた(理解できる)作品だけが「漫画を超えた」作品として祭り上げられる、その構造に岡崎京子は捕えられそうになりながらも脱出しようとし、ひうらさとるは常に外されながらも抗してきた。『ハッピー・マニア』を読んだ時、私たちはその交錯しながら離別した2人の影響をどうしても感じざるを得ない。「バカでダメ」と「リアルでクール」という一見相反した面を見せるこの作品は、単に「漫画と文学の融合」というような言葉で語られるものではなく、むしろその2者、いいかげんなものとリアルなものは同じ性質なのではないか? あるいは漫画と文学は同じフィクションであり現実なのではないか? という、考えてみれば当たり前のことを示唆する。もしかしたら私たちが心配するまでもなく、ひうら的なものと岡崎的なものは(あるいは、そもそもそういう風に分ける必要もない「少女漫画」というものは)「失われた10年」の間にも(あるいはその後も、例えば東村アキコ石田拓実などの作家に)確かに受け継がれているのかもしれない。


f)「少女漫画」のリアリティ
考えてゆくと、「リアリティ」には全く別種の2つの意味があるのではないかと思える。ひとつは「既知のリアリティ」で、知ること、経験すること・分析することで「リアル」な感覚を得、「リアル」を知っていると言うことで優越感にも似た安定した意識を持つものだ。「リアルでクールだ」と言った瞬間、それは「リアル」を自分の側に引き寄せ、自分が知っている・経験しているだけのもので都合よく切り取り、誰かと共通した認識を持つという安心に陥ってしまう。
ひうらさとる岡崎京子の描く漫画は、むしろ「未知のリアリティ」とでも呼ぶべき様相を持つ。何もかも確かなもののない中を生き延びる少女達を描く岡崎、その不確かさを逆に武器にして、パワフルなテンションで疾走を続けるひうらの作品。そこにあるのは、誰もが持っている「不安定」を、無理な力を掛けて「安定」へと堕としめるのでなく、不安定であること自体を逆に力にする、非常に難度の高い作業だ。80年代の狂騒、そしてその後の世界の反転を通り抜けてきた2人だからこそそういったことができるのかもしれない。
(例えば少女漫画のラブストーリィを取ってみても、かつての定型が、安定した恋愛以前の状態→不安定な恋愛→安定したステディな関係、という形を取っていたのに対し、例えば津田雅美橋本みつる山本修世といった90年代前半にデビューした花ゆめ系作家の中には、不安定な日常→不安定な恋愛→不安定だが「リアル」な関係、という描き方をするものが増えているのも、少女漫画の中で「リアリティ」の様相が普通のものとは大きく違ってきているということが見て取れるだろう)


そして、「既知のリアリティ」がつまりは、大人(的な経験主義)、男性(的な権力の集中する場所)、文学(を理解していると自ら信じている人々)、にとっての「リアリティ」であったのに対して、「未知のリアリティ」は、年少き者、「女」の側の者、「漫画」的であるもの(であり、ほんとうに「文学的」であるもの)が作り出してきたもの、つまりは「少女漫画」がその原初から常に作り出してきたものに他ならない。ひうらさとるの立ち位置、そして描いてきたものはその「未知のリアリティ」が「既知」に取り込まれてゆこうとする中で、最後まで見向きもされず捨てられる部分だ。あるいは、「少女漫画」が、分析され、「リアリティ」を持たされ、「大人」の「男性」にも読めるもの、そして「漫画」を超えた「文学的」なもの、とされ、分断される、つまりは「名誉白人」的な位置に立たされたときに、最後の砦として残ってゆく部分だ。
「BABY GAME」的なオトナ/コドモ観に立脚し、「女の子」だけのためのリアリティ/ドリームとして機能し、漫画的な面白さに溢れている『レピッシュ!』をはじめとしたひうら作品は、そういう意味であるいは大島弓子岡崎京子にも匹敵する、「少女漫画の中の少女漫画」といってもいいのではないか。


参考
「KAWADE夢ムック 文藝別冊 岡崎京子」(河出書房新社、2002年)
椹木野衣「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」(筑摩書房、2000年)


安野モヨコハッピー・マニア」(祥伝社コミック文庫、全6巻)
岡崎京子リバーズ・エッジ」(宝島社)
岡崎京子ジオラマボーイ・パノラマガール」(マガジンハウス)
岡崎京子東京ガールズブラボー」(宝島社、全2巻)

レピッシュ! (1) (講談社漫画文庫)

レピッシュ! (1) (講談社漫画文庫)

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