「僕(ら)は、ボク女になりたかったのではないのか?」

フラワー・オブ・ライフ』を読んだ時、出てくる男の子キャラやその関係に対して思ったのは、「ああ、やっぱり新書館まんがなんだな」ということ。藍川さとるあとり硅子こなみ詔子西炯子に連なる、「理想的な」男の子像。ホモソーシャルにもホモセクシュアルにも単純に属さない関係。
もちろんそれを「理想」したのは女性読者だけではなくて、今よりずっと新書館と男の子たちが近かったあの頃、僕(ら)自身もそれを「理想」したはずだ。だからこそ僕(ら)は、雁須磨子が『いちごが好きでもあかなら止まれ。』を、羽海野チカが『ハチクロ』を、そしてよしながふみが『フラワー〜』を描いたとき(僕(ら)はその3人を「スラダン同人出身系」と呼ぶ!)、ホモソーシャルホモセクシュアルの忌避であり、ホモセクシュアルホモソーシャルからの解放であり、「オトコノコ関係」がまるでその二項対立しかないかのような語られ方をされる状況に対し、第3の(かつて新書館まんがの中にはっきりと、そして(多くは男子校生だった)僕(ら)の「リアリティ」の周りにもうっすらと存在したはずの)「オトコノコ関係」を発見した(あるいは、思い出した)のではないか。(そしてそれは逆説的に、僕(ら)が僕(ら)の中だけで語っていた「オンナノコ関係」(橋本治から始まる?)にも再度疑義を生み出すのだけれど)


あるいは。


「少女漫画に出てくる少年は、女の子がなりたかった性の理想像である」という(誰かや、多くの人たちによる)言葉は常に懐疑しながらとらえる必要があるのだろうけど、それでも、萩尾や竹宮、あるいは長野まゆみが描いた「少年」が、与えられた性から自由な存在として映るのは確かだし、いくつもの少女漫画で、僕(ら)や私(たち)は「男の子になりたい女の子」「女性でありたくない女の子」に出会ってきている。『僕はかぐや姫』との出会いは、ちょうど僕(ら)が少女漫画を読み始めた頃と重なっていないだろうか?


そして僕(ら)は、


僕(ら)は、「その」男の子/少年になりたかったのではないのか。理想的なオトコノコ関係を作り出す、あるいは性から自由な存在としての。だけれども、新書館まんがが描いた男の子の意味に気付いたのは『フラワー〜』に至ってようやくだし(あるいはそもそも「問題」の前に「解答」があったのだ)、何よりも、女の子があたかも容易に(中性的な存在としての)「僕」になれた(という勘違いが僕(ら)の目に映っていた)ようには、男の子は「僕」にはなれなかった。女の子から「僕」がワンステップだったのに対して、あの頃の僕(ら)には、いったん「女の子」(あるいは、「少女漫画」)を通る迂回した形でしか、中性的な「僕」に至る道はなかった(し、その状況はもしかしたらまだ続いているのかもしれない)。
僕(ら)は女の子になりたかったのではなく、「男の子になりたかった女の子」になりたかったのではないのか? 再アニメ化されたKanonとか観ながら僕(ら)の内の誰かが嘯く、「僕(ら)はボク女に萌えていたんじゃない、僕(ら)は、ボク女になりたかったのではないのか?