尾崎衣良は、ゼロ年代の新人でいちばん『バナナブレッドのプティング』という作品を意識して描いている漫画家なのではないかということ

ほんとは2年半前くらいから「尾崎衣良すごい!」って知り合いに薦めまくってたんだけど、それから今まであんまりどこにも取り上げられていないので、今さらながら紹介します。


最初に読んだのはデビュー単行本『AM8:00君が好き。』。絵柄と、何よりペンネームに引かれて。なんかへんてこな話だけど話作りは上手いなーと思いながら頭から読んでて、最後に収録された「夢の欠片」に衝撃を受ける。
「夢の欠片」は、大学の入学式で出会ったヒロインとオカマのカンちゃんの話。一見明るく社交的な主人公は、けれども極度の潔癖症があり、彼氏ができても手を繋ぐことすら拒否感を覚える。ホントに好きなのに心がついてゆけない、「このままじゃ誰ともつきあえない」「あたしこのまま一人で生きてかなきゃならないの 不安で不安で仕方がないの」「あたしはどこか欠陥があるのかもしれない」と泣き出す彼女に、カンちゃんは自分の体験を話す。「どっちとしても生きることができない 僕のほうこそどこか不完全…僕のほうこそ不安で不安で仕方がない」そして言うのだ、「保険をかけよう」「もし何十年後か お互いまだ不安でコドクだったときには そのときは 一緒に暮らそうか」
自分の在り方や関係の作り方が、人とは少し違うために苦悩する。思い望む在り方や関係をけれども得られない、そうして不安を抱き続けるのがわたしたちで、その思いを掬い取ろうとするのがまさに「少女漫画」自身なのだけれど、カンちゃんのかけた「保険」はまるでその役割を代わって受け持っているよう。主人公は語る、「その後何年も 何十年も それは確かにあたしを支えた」「その後大学を卒業して 結婚して子供を産んで それでも時々ふっと不安になるとき いつも思い出すのはあなたのこと」。「永遠」でも「運命」でもない、ほんの小さな関係が、たった一言の言葉が、とりとめもない約束が、時には長い時間を掛けた関係を凌駕する、そして何十年もの間わたしたちを支えていってしまうこともある、そういう繋がりがあることをわたしたちはすでに知っているし、そもそも「少女漫画」自体がそういったものに相似してはいないか(たった数十ページの作品がそういった効果を持つことを、すでにわたしたちは経験しているはず!)。


一読して「水人蔦楽の再来か!」とか騒いだこの短編は、何度も読み返すうちに、もしかしたら2000年代の少女漫画の(新人の)なかで最も『バナナブレッドのプティング』という作品を(今さら!と言ってしまう位に時を経た今)意識して描かれた作品なのでは?と思ったり(そもそもペンネームもなのだけど、作者が最初「りぼん」でデビューした時に名前はそのまま「三浦衣良」だったり!)
『バナナブレッド』で、というより『バナナブレッド』論で、わたしたちが最も違和を感じたのは、例えば橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』で「“性”の対象として男性を求める男色家は、女性を傷つけません。(中略)ですから彼女は望むのです、自分と向き合わない、自分を脅かさない男色家の男性を。」と書かれたような、衣良の行動を「人(男性)と付き合うことの忌避」と断じてしまったことかもしれない。「夢の欠片」ではまさにカンちゃんが、自分と付き合えるのは「それはきっと僕が絶対安全な対象だからじゃないの?」と問う。その場では口よどむのだけれど、主人公は最後のページで答える、「ちがうわ カンちゃんが大スキだからよ」。30年先の未来から、尾崎衣良はかつての「衣良」を評した人々に対して、「ちがうわ」と言い放つのだ。『バナナブレッド』は決して単純な一意的な成長の物語ではなくて、意識が移り変わったとしても、はじめに衣良が「世間に後ろめたさを感じている男色家の男性」を望んだのは、「夢の欠片」の主人公のカンちゃんに対する思いと同じように、決して恋愛以前の未熟な意識ではなくて、それ自体が同等に「恋愛的」なのではないか、そう尾崎は描こうとしている。だからこそ、「夢の欠片」のラストでは本当に「何十年後」に「一緒に暮らす」2人が描かれる。(もしかしたら清原なつの『花図鑑』の一編や、藤村真理『降っても晴れても』を読者はそこに思い出すかもしれない。『降り晴れ』の関係がまさに「未熟な意識」的に描かれてしまったことに対しての、それはささやかな反抗なのかも)


映画『あらしのよるに』のトリビュートとして描かれた短編「リセット」(『それぞれのあらしのよるに』所収)は「夢の欠片」ど同系列の作品で、やはり『バナナブレッド』への意識がありありと見て取れる(「隠れ蓑」とか「もつれた糸をほどいて」なんて言葉が出てきたり!)。男が苦手な主人公果林とゲイの一臣はお互いの事情を知って仲良くなり、「友情で結婚すんのもアリなんじゃないかと」と結婚してしまう。「隠れ蓑として一緒にいられる」関係に安心しながら、けれどもやがてお互いを意識してしまう。セクシュアルな関係を持つこととそれを忌避すること、あるいは恋愛と友情、そのどちらにも依らず、あえて不安定な関係をそれとして認め続けること。ラストの「いつか自然に幸せなセックスをしよう」という言葉は、性的な関係(あるいはその欠如)がそれそのものを超えて関係性を強制的に規定してしまうことを拒否するという、まさに現在的な(石田拓実ヤマモトミワコ雁須磨子あたりにみられる)問題意識がある。果林が過去の体験を乗り越えようと、「一臣があたしを傷つけてくれたら 普通の恋人のようになれたら」と「傷つけられる存在」になろうとするシーンは『バナナブレッド』で衣良が「ナイフを持った存在」となることと相補的なのだけれど、ラブストーリィが(さらにはあらゆる人間関係、そして生きること自体が)つまりは傷つけ/傷つけられること、それに怯まないこととされてゆく言説に対して、しかし『バナナブレッド』の峠がミルクを差し出したように、一臣は「そーゆーんじゃなくて」とやんわりと「休戦」を申し出る。もちろん傷を生む戦いはあらゆる所にあるのだけれど、それと同じだけの「ミルク」があらゆる所にあるのだ、ということ。過度の怯えにとらわれないように、過度に「傷」に慣れないこと(そして、そもそもそういった自意識を溢れさせないこと)、それが前述するような「自然」なのではないか(それを得るのはとても困難な、さまざまなしがらみを乗り越えた先にあるものなのだけれど)。「リセット」はまさにラブストーリィ的文脈の中で(『バナナブレッド』のラストで言うような)男の子/女の子として生きること(さらには、その役割を受け持たない形で生きること)の困難と、その先にかすかに見える救いのようなものを示した作品だろう(それを『あらしのよるに』の原作を読み変える形で描いたのもまた驚異的だ)。


実際には、「夢の欠片」「リセット」(あるいは「貴方に宛てた物語」や『象の背中』(秋元康作品のノベライズ、といいながら全くオリジナルストーリーだったり!))あたりの言ってみれば「ダーク尾崎」的な作品は少数で、多くはコミカルでハッピーエンドのように見える作品を尾崎は描いている。その「ライト尾崎」な作品がでは平凡かというとそんなことは全くなくて、初単行本で「フツーの少女マンガが読みたい方はこの本、買ってはいけません。」と言われたくらいに、かなりトリッキーな設定や話作りを持つ。普通の少女マンガラブストーリィを描こうと目指していながら、けれども出来上がってくるものはどこかへんてこなものになってしまうのは、川原泉や大野潤子、おおばやしみゆき羽山理子あたりに通ずるものがある。
最新刊『描くならハッピーエンド』の表題作や「夜の静寂をうつうつと」は、その「へんてこ」さの捌きがより洗練されつつ、さらには「ライト」と「ダーク」の両方を兼ねつつある作品と言えるかもしれない。もともと「ライト」な作品の中でも、モノローグに急に重い言葉を持たせたりと、どこかするっと進むことのできないゴツゴツとした印象(器用な中に不器用さが見え隠れするような)があり、それは魅力でもありつつ読みにくさを感じる読者もいた筈だけれど、最新刊ではその魅力を減ずることなく、「へんてこ」さと少女漫画的な問題意識という2つの武器を上手く同居させた作品になっている。少なくとも、今後どういった進化を遂げてゆくか注目すべき作家であることは間違いない。


AM8:00君が好き。 (フラワーコミックス)

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描くならハッピーエンド (フラワーコミックス)

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バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

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