三原順はみだしっ子」をようやく読み中…まだ3巻まで、といいつつそこから進んでない。今年中には読み終わらないと。
2巻終わりですごく気になるくだりがあったのでどさっと引用。

「君たちは傷ついて…そして言うんだ “君にはわからない この痛みはわかりはしない!!”って そうかもしれないボクには!君たちが傷つけられたのを見て…察することしかできない…」
「だけど君たち …知ってるかい? 君達がそう言う時には…君達が孤児院の子だからって拒まれてるのと同様にボク達を拒んでるって!!」
「両親そろったボクには… 君達のことがわからないといわれても 親を殺すわけにはいかないよね… ホントなんだよ! わかってくれないと…君達が泣く時に わかりきれずに泣く人だっているんだよ!」


アンジーが語る、「昔々のお話」。

「昔々…ある街を少年が けがをした少年が一人…すっかり蒼ざめた顔で 夜道を歩いて行きました」
「傷口からは血が流れ 一歩…また一歩と歩くごと 少年は弱ってゆくようでした」
「それを見た一人の少女が思わず少年のもとへかけより傷口に手をあてました」
「少女は流れる血をとめてあげたいと思ったのです けれど少年はふれられた痛みにとびのき叫びました」
「あなたはなぜボクの傷口にふれるのですか? ふれて…この傷を癒せるというのですか? ではせめて包帯をまいてくださるというのか?」
「けれど少女は少年に…何もしてやることもできませんでした それで少年はそれまでよりももっともっと辛そうな面持ちで また夜道をゆかねばなりませんでした 泣きながら…」
「そして残された少女も泣くのでした 少年と同じ夜空の下で…」


お話の終わりが哀しすぎるので、マックスは続きを作る。

「女の子はねェ それでも…なんにもしてあげられなくっても…心配で後をついてくンだよ」
「男の子にもそのくつ音が聞こえてるんだ ずっと…ずっと… 男の子とっても嬉しくなっちゃうんだ そして言うんだよ…“ありがとう”って…」


3巻では
「君は…君が満足したくて他人をわかろうとするの?」とか
「何にでも自分が関わりのあるように思うのは簡単だけど そうしてすっかり傍観者でありきるのもいいね」とか出てきたり。



2巻で、サーニンが道で女の子と出会って、彼女は「家出してきたの!」って言うんだけど、同じところをぐるぐる回っている。「だって…わたしまだ道路わたっちゃいけませんっていわれてるんだもの」サーニンは思う。「君はまだ君を愛してくれる人が許す中でしか…彼らの許しに支えられているのでなければ…自分を愛することができないんだね…」
この部分、正直言うとほんとに理解できなかった。本当に自分自身の形を保つためには、無償の愛なんて捨ててしまえ!っていうことなんだろうけど…(そこまでは言ってない?)。たとえば「与えられる無償の愛」と「信頼で築いてゆく愛」と「自分自身(の在り方)を大切に思う気持ち」ってのがあって、はみだしっ子は1番目はかなり疑問視してる。で、2番目も話が進むにつれ危うく扱われてる。で、下手すると3番目すらその1番2番の影響で厳しい位置にある。かなり極端な価値観。
けれども。
読む前の勝手な印象だと、「はみだしっ子」は子供期の複雑な関係や感情を鋭く描いて同じ思いを持つ少女に多大な共感を得た〜みたいな作品だと思ってたけど、上の引用をみると、「はみだしっ子」はそれが含むある種のセンシティブさについて、一歩外れた見地も持っているのではないかと感じる。こういう作品だとどうしても「共感」が第一の目的のように思えてしまうし、他の作品でもまずはじめに共感できるかできないかを(作品の側からも読者の側からも)測ってしまいがちだけど、共感も理解もできない距離のひとに対しても、「はみだしっ子」はちょうど傷ついた少年をつけてゆく少女のような、ひとつの位置を与えようとしている(もしかしたら、「決して共感しない、理解しない存在が一人いることそれ自体が救いになるのかもしれない」っていってしまっていいのかも!)。そこがただただすごい。
とりあえず途中までの感想でした。