ヤマシタトモコ「Re:hello」「ばらといばらとばらばらのばらん」

(ものすごい勢いでネタバレしています)


「恋をするのが当然だと思い込んでいませんか?/しなくたっていいんですよ 人が言うほど当たり前じゃないんだから/でなければTVや映画にあれほど恋愛物が多いはずがない/運命の恋人に会った者に他人の物語は必要がないんです」(吉野朔実『恋愛的瞬間』)


ラブストーリィを司る神はたぶんおそらく一神教の体系に属していて、だから彼/彼女自身は決してラブストーリィの渦中には在れない。「運命の」「本当の」恋愛と関わる機会と引き換えに彼/彼女は、わたしたちはそれを叙述し、読解する能力を与えられる(ラブストーリィを読む/描くこととは、ラブストーリィを読む/描く側の「わたし」であることだ)。恋愛がラブストーリィの、ラブストーリィが恋愛の写し絵になっていないのも当たり前のことで、どちらかに溺れた瞬間に、わたしたちはあの人魚のようにかつてのテリトリーの言葉と論理を失ってしまう。
ヤマシタトモコの「Re:hello」(『恋の話がしたい』所収)と「ばらといばらとばらばらのばらん」(『イルミナシオン』所収)は、そういう意味でわたしたちと恋愛/ラブストーリィの関係についてひどく自己言及的な作品に見える。
「Re:hello」で、初恋相手の叔父がゲイだと分かってから「あんまり恋というものに興味を持てなくなってしまった」少女は、彼の生活に常に「誰か」の影があること(たとえば叔父が必ず呼び鈴に自分で出ようとするのは、その「誰か」を待ち続けているから)をずっと感じ続けている。偶然にロックを外してしまった叔父の携帯に、十数通の未送信のメールがあるのを彼女は発見する。おそらくその「誰か」と連絡が途絶えてから数年間、短いしかし濃密な文面がひっそりと小さな機械に蓄積されていたこと(最後の日付は「物語」の時間のわずか数日前だ)。「遠く夢の国のおとぎ話のようにわたしの世界と重ならない」と彼女が思う「本当の恋」が、けれどもすぐ目の前に確かにあること。
「ばらと〜」の語り手の少女は、自分の視線の先にあった同級生の赤井を、やはり同級生の十亀が常に目で追っていたことに気付く。いじめに近い扱いを受けながらもその向かう気持ちが変わらない十亀に彼女は思う、「十亀はわたしと同じようには赤井を好きでないのだと思った/わたしの恋は子供じみていて――/わたしにはもしかすると一生に一度もこんなふうに恋をすることはできないような気さえした」。2作に共通する意識はきっと、わたしたちがラブストーリィに触れる時にいつも感じる、あの感覚に近づこうとするものだ。「本当の恋」を語ろうと、読解しようとするほどその世界はわたしたちと「重ならない」こと、「一生に一度も」その歓喜/災厄はわたしたちに訪れないこと。わたしたちはただ一神教の神となって、すぐ目の前に実在する、けれども触れられない「本当の恋」を、わたしたちの言葉による「ラブストーリィ」に落とし込むことしかできない。「恋」が出来ないわたしたちには、「恋の話」をすることしか残されていない。
「ばらと〜」の終盤、十亀が赤井に告白する場面を、そして赤井が拒絶して突き倒すシーンを、少女は偶然校舎の中から見る。「わたしたちは/こんなふうにして毎日/傷つけたり/傷ついたり/ただ見ていたり/――そしてそれをいつか大人になって忘れたり悔やんだり」重ねられるネームはまさに3人の、そしてわたしたちとラブストーリィの関係そのものを写していて(「恋愛」の渦中にもうないからこそ、忘れることも後悔することもできるのだ)、もちろんわたしたちは2作の前に描かれたもう1つの作品を思い出す。
ベイビー、ハートに釘」(『恋の心に黒い羽』所収)で、主人公は弟が同級生に告白するのを偶然聞いてしまう。「決して望むように好かれてはいない」弟がしかし相手の言いなりになるのを、彼女はただ見守ることしかできない(そして弟に罵倒の言葉を投げつける相手がしかし「罪悪感に頬を歪める」のも、彼女は見てしまうのだ)。両親が亡くなって5年間、「おはよう」と「おやすみ」の言葉を常に掛けることで育ててきた弟の心に、「本当の恋」の相手のたった一言の「釘」で治らない傷が付いてしまうことに彼女は、わたしたちは手を出すことができない。できるのはまた「日常」を積み重ねること、ラストにあるように再度「おやすみ」の言葉から始める(それがもはや無力な、わずかな意味しか持たないことだとどんなに分かっていても)ことだけだ。「本当の恋」の(それに立ち会う周りにとっての)、くらくらとするような眩しさと残酷さ。
「ベイビー〜」から1年間に出した単行本で、ヤマシタトモコは繰り返しこの題材を扱う。おそらくはそれが現在に「ラブストーリィ」を描くことの困難さと密接に繋がっているからだ。そしてその困難さに愚直に向き合ってしまうという一点で、ヤマシタの作品がラブストーリィ漫画、少女漫画の最前線にいることは間違いない。


手の届かない向こう側に向かって、けれどもヤマシタの作品では、ただ立ち尽くすしかなかった「ベイビー〜」から少しずつ手を伸ばそうとしているように見える。
「ばらと〜」で突き倒された十亀の元に、少女は「そもそも私には関係ない」と思いながら、しかし息を切らせて向かう。たとえ自分の恋が「子供じみ」たものであっても、決して「本当の恋」には至らないものであっても、それを忘れない、悔やまないために、彼女は十亀に手を差し出す。「恋敵よ今きみの手をとる!!」その瞬間、ラブストーリィの側にあった「わたし」と恋愛の側にあった「あなた」が、違う位相にいたはずの2人が、同じ「恋」を共犯しようとする。もしかしたらそれは触れ合わないまま、未遂のまま終わるのかもしれない、けれども確かに「手」は伸ばされ、境界は越えられようとしたのだ。それも神が物語に介入するのとは違う、ただ1人の少女の「手」として。
「Re:hello」のラスト、少女は手違いで携帯のボタンを押し、未送信のメールの一通を送ってしまう。叔父の部屋を鳴らす呼び鈴、またも出ようとする彼を彼女は茫然と見つめる。「あのベルが絶対にあの人でないということはない/だってわたしがあなたの言葉を送ってしまった」。いつまでもラブストーリィを、「夢の国のおとぎ話」を叙述し読む側だった少女が意図せずして、物語をその「手」で侵犯してしまう。あるいは既にそれは、あの強固と思っていた「本当の恋」の世界は、安泰と信じていた神の座は、そのくらいに脆いものだったのだろう。ラブストーリィをめぐる困難な状況は、もはや安全に観る側と演じる側を区分けできない(それはヤマシタがこの3作で状況をメタ的に描き出してしまっていることからも明らかだ)。
それでもわたしたちは向こう側を、「本当の恋」を「一生に一度も」経験することは出来ないのかもしれない。けれど、わたしたちはわずかな力を持つ「手」となって、(偶然に、もしくは意図的に)向こう側で震える背中をささやかに押すことも、差し伸ばされた手をそっと引くことも出来る。「神の見えざる手」ではなく、わたしたちと向こう側のわたしたちの、ひそやかな繋がりとして。それが「恋愛」ではないとは、わたしが「ラブストーリィ」の渦中に在らなかったとは、決して誰にも言わせない。


少女漫画という言葉はもちろん、その2人の少女のための/による漫画、「ラブストーリィ」という定義で、だからそれは常に再帰的だ。ヤマシタトモコ作品を、「ラブストーリィ」を、「少女漫画」を読むことは何度も繰り返し、「少女漫画」であること(あの少女であり少年たちであること)の意味を呼び出す。その度にわたしたちは、ひとつひとつの関係や距離のあり方、「手」の差し出し方を、慎重に選んでゆかなくてはいけない。「本当の恋」は(それがわたしの物であっても他人の物語であっても)はじめからあったもの、与えられたものではなくて、そのそれぞれの「手」、それぞれの「恋愛的瞬間」の残像が連鎖して形作る、ひとつの映像的な知覚だ。無数の「手」が無数のボタンを押してしまうこと、偶然や意図を織り混ぜてしまうこと、その積分が「恋愛」になるのだとすれば、わたしたちが少女漫画を読むこともきっと「恋愛的」であるのには違いない。「恋をするのが当然」なのではなくて、わたしたち自身が「恋であるのが当然」なのだ。わたしたちの、「恋」の、話がしたい。

恋の話がしたい (マーブルコミックス)

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イルミナシオン (mellow mellow COMICS)

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恋の心に黒い羽 (MARBLE COMICS)

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