情報と選択

ヴィレッジヴァンガードに寄ると(いや寄らなくても)いつも思うのはある作品(本や音楽や)を選択するということの問題で、例えば冬野さほ松本大洋の隣に置いてあったりするともうそういうものを全世界的に強制されているかのような気分になったり。もちろんそういうゾーニングはどんな店にもあるし、「表紙は蜷川実花!」とか小説にメモ付いてるのをへっ!と横目で見ながら自分もミルキィ・イソベ表紙の本に魂を惹かれたりするんだけど、それでもそういう思いをしてしまうのは自分の惹かれるものがそういうゾーニングから外れてしまったものばかりゆえによる逆恨みなのかも。冬野さほの隣には決して佐々木マキは置かれないし、「H」がアニメ特集をすると決まってエヴァか宮崎ものでウテナは扱われなかった。ただヴィレッジヴァンガードで(あるいはあの形式の店や言説で)そう思ってしまうのは、あの形式が一見何かとても自由で創造的な選択という活動を行っていると錯覚させる(例えばサファリパークで雄大な自然を感じさせるような)という二重の虚偽を行っているからなのかも。
googleは今のところ非常に便利な検索サイトだと思うんですが、使っていて常に立ちあたるのは、それが世界中にある情報を等価に扱い示すのではなくて、語られているものはより多く語られ、語られないものは決して語られないということで(それは2chも同じかも)、ネットはむしろより多数派のためのものではないかという感覚(ただ、「多数派」のハードルは下がったのかも)。自分の知りたい情報は「自分のサイト」以外決して見つからないし、なんだかそれによく似ているかもと(向こう側が)思うものを提示される(ちょうど何かのサイトに登録して趣味の欄を書くと、分野は同じだけどまるで見当違いな情報メールが嫌となるほど送られるみたいに)と、もしこの「よく似ているかもなもの」とそれとをあまりよく区別しなかった場合どうなるのだろうと思う。というか、このへぼ日記もリンク元とか見てみると、ささやかなアクセス数のうちにある小説や漫画や作家への偏りが見られて、もしかしたらそれやそれやそれについての日記なのかもと錯覚するのだけれど決してそうでもない、と言い続けられるのかどうか。あるいは別にしたくもないあの昔の薔薇族掲載の漫画の話をしてしまうのに似た状態になることはないのか。
この2つを合わせると、例えば自分はONE(tactics)と小川洋子(の初期作品)に密接な関係があるのではとずっと思っているのだけれど決してそんなことはないらしくて、これはONEを(メディア生活で)体験するゾーン、あるいはweb上での言説のゾーンと小川洋子のそれとが決して重なっていないせいなのか、あるいはそれが「より多く語られ」るものでは決してなかったのか、それとも自分の全くの見当違いなのかよく分からない。
あるいはTOKYO No.1 SOUL SETの一番の(または「文学的な」)作品(ありゃ、「ソウルセット好きな曲投票」が見つからない。過去には9割を超えて1位だったんだけど)と言われる「JIVE MY REVOLVER」の詞は多くがボルヘス「砂の本」の文章のコラージュなのだけれど、95年当時も現在もそんな話は一度も語られていたことはないし5年くらい探しているけど見つからない*1(というか、他に指摘している人がいたら教えて頂きたいです)。これは多分見当違いではないので、当時「渋谷系文学」とか言ってた人々がボルヘスを読むゾーンにいなかったのか、単に語られなかっただけなのか(このことについては後の日記でまた書くことにします)。
そういうわけで、はてなキーワード登録の絶望的なほどの登録数(登録語)の足りなさと偏りは、自分は非常に面白いものと捉えているんですがどうでしょうか。

*1:かわりにこんな所が