コスプレと恋愛/純愛

id:natsu-kさんのコスプレに関する文章が興味深いです。id:natsu-k:20031025#p2より引用。

「コスプレしたいけど、似合わない」ということを言われることがある。理由がいろいろあって、多くは「太ったから」とか「歳だから」、「ブスだから」。「男だから」っていうのも、ある。

これを読んで、前にも引用した吉野朔実『恋愛的瞬間』の恋愛と友情の違いについての記述(id:sayuk:20031017#p2)を思い出す。コスプレ、ひいては服飾(さらにはコスメも)は恋愛的であるべきではないか? 嶽本野ばら『パッチワーク』(ISBN:4594037674)でも同様の類推をしていて、さらに「恋愛の場合は相手の気持ちもあるのでこちらの思惑通りにはいきませんが、お洋服はお金さえあれば買えるのです」と言う。「太ったから〜」などの「あらゆる抵抗」(抵抗感)に打ち勝って「お洋服」と「相思相愛」になる力や意志を持つべき、というのがたぶん野ばら氏の主張。周りから「あなたと彼合わないんじゃない?」「見込みないからあきらめなさいよ」と言われて諦めちゃうんじゃ本当の恋じゃないってこと。
ではなぜその抵抗感が生じてしまうかっていうと簡単で、ビートルズ聴きたいけど(三島由紀夫読みたいけど)似合わない、なんてことを言う人が稀有なのも、コスプレを含む服飾が即市場にのせられて品評されてしまう状況だったから。natsu-kさんの文章から再度引用。

コスプレはコスプレ対象に「交じり」、「近づく」という行為が面白い。「近づきたい」と思い、その過程で対象と「交じり合い」ながら「コスプレすることでしか味わえない」感触を体感するのである。その結果の完成品に商品価値があるとか他と比べてどうとかは、二の次で、それらはコスプレ行為以外でも解消できるリビドーなので、ほんとうはあまり重要なことではないかも、とすら思う。なんとなく「手作りのほうが良い」とされるのも、対象を観察し、研究し、作る上でさまざまな想像力を働かせると同時に、自分を観察し、研究し、変化させていく行為自体がコスプレ的で楽しいからでもある。

「その結果の完成品に商品価値があるとか他と比べてどうとか」というのを逆に考えてみると、服飾やコスプレをした瞬間に価値判断に曝されてしまうように、恋愛も発生した瞬間に有価か無価かが取り沙汰される。つまりは「かなわぬ恋・間違った恋愛」(=無価)か「かなう恋・ステキな恋愛」(=有価)か。そう考えると、恋愛市場とやらに乗っていると女性を批判するその視線こそが、彼女達に発生した恋愛を即座に有価無価に分類してあたかもそこに「市場」があるかのように構築してしまうのではないか?(問題は、恋愛至上主義よりも「正しい恋愛至上主義」なのかも)
かつての少女漫画を含むラブストーリーが常に「かなう恋」のみを有価として扱ってきたのは確かで、初恋や片思いが多く描かれるのは、価値分類されない発生の瞬間のみを切り取ることでそういう視線に抗しようという意識なのかもしれない。服飾が外部の視線から輪郭づけられる、その殻からの脱却を(例えばコスプレ*1やロリータ服で)目論むように、「かなう恋」と「かなわぬ恋」へは未分化のまま幼形成熟した(「大人の恋愛」に対する「発育不全の」として)恋愛を描くのは例えば石田拓実id:sayuk:20031015#p2)や羽山理子id:sayuk:20031018#p2)とかで、ネオテニィ的な叛逆こそがFRaU読者がほんとうに望んでいた「純愛」なのかも。

*1:そういえばnatsu-kさんはコスプレをサイボーグフェミニズムの一種として位置付けていたりしますね。