コスメの三位一体構造/『コスメの魔法』

「健全な精神は健全な肉体に宿る」(あるいはその逆)思想をコスメは演繹した形になっていて、つまりは「健全な美容は健全な肉体に宿る」&「健全な美容は健全な精神に宿る」(あるいはその逆)という三位一体*1の構造になる。基礎化粧品や内服する種類のコスメはまさに前者の思想で、健康状態を改善することで肌状態の改善を、そして「美」を獲得するという構造。ただその逆は微妙で、副作用の問題やメラニン漂白、ケミカルピーリング(角質を剥がす処理)などの施術は「健全な肉体は健全な美容に宿る」とは言いにくかったり。(多くの美容は、肌細胞の健康を目指すものなのだけれど)
コスメの魔法』のストーリーは多くを後者(精神⇔コスメ)に依っていて、たとえば第1話では化粧水をつける時に「念をこめて」いるか、「肌の内側に入っていけ〜〜入っていけ〜〜って念じるんです!!」という台詞が出てくるのだけど(精神→健全な美容)、同じような言葉は(男性には驚かれるかもしれないけど)多くのコスメ雑誌で出てくる。「宗教じゃあるまいし」という相手に『コスメの魔法』の主人公、高樹礼子は言う。「きのうより少しでもキレイになることで幸せになれるなら それはもう宗教でしょう? 目的は“キレイになること”じゃなくて“幸せになること”なんだから」(美容→健全な精神)。多くのコスメ雑誌で言われる「コスメで幸せになる!」っていうのは(風水とか占いとかいう問題ではなく)つまりはそういう意識で、『コスメの魔法』は第1話にしてコスメの三位一体構造を表わしているすごい作品。
精神論と技術論・機能論が錯綜するコスメ記事を読むのにはこの辺の認識がたぶん必要だと思うのだけど、さらに『コスメの魔法』がすごいのは三位一体構造の外、コミュニケーションとしてのコスメを扱っている所。三角形に加えてもう1点、「他者」という点が加わる。
第2話「不器用な眉」は、「要領が悪くて不器用でなにひとつ取り柄のない」、団地の他の主婦にいいように使われてる女性がコスメカウンターに通い始めて変わってゆく話。「ちょっと眉を変えただけ」でさまざまな幸せなことが起こってから、彼女は眉を美しく描くことを学び始める。はじめは家族から誉められたり、他の主婦にちょっと強い態度を取れたりするのだけど(美容→健全なコミュニケーション)、上手になるにつれて他の主婦を見下し始めるようになる。自分では「あの人たちとは違う」キレイになったと思っていたのに、再度コスメカウンターに通った際主人公から「キレイにすることはできませんでした」と言われてしまう。「その眉からは幸せが見えてこないんです」「眉は表情そのものなんです 怒っていればつり上がり悲しければ下がってしまう どんなにキレイに描けても心の中まではごまかせない……」他の主婦を見下し孤立する「強がり」ではなく「みんなと対等につきあい」たいと思う優しさを手にすることで、彼女はほんとうの「キレイ」になる(コミュニケーション→健全な美容)というストーリー。実際(1話完結物の)『コスメの魔法』はこういう展開が多くて面白い。コスメ雑誌的には「コミュニケーションとしてのコスメ」という視点はまだ少なくて、その辺この作品は明らかにコスメというメディアの目指す先を行っていると思う。

*1:これ書いた後に「TRINITY」という雑誌に「三位一体」という言葉がまさにこの意味で出ていてびっくり。