オトコノコはオトコノコ

id:sayuk:20031109#cのコメント欄に書いたように、ぼくが結局いちばん怖れていたのは「オトコノコはオトコノコ(オンナノコのことなんて分かってない)」とされてしまうことで、でもそれはぼくだけでなくて、多くのオンナノコになりたい/オンナノコに出会いたいオトコノコが持っていた怖れだったのではないか。フェミニズムからハウツー本までさまざまな形で「女の子」が語られ、理解されようとした時期の後にそのオトコノコたちは育ってきて、そもそもそういう言説は一周してあのPOPEYEやnon-noの「ホンネ」特集と同じものでしかないってことを知ってしまっている。だいたいぼく自身は「オトコノコのホンネ」にすら回収されていなかったはず。
「ほんとうのオンナノコはオンナノコになんかなりたくないはず」なんてパラドックスをぼくやぼくでない人たちはどうやって解消したのだろう? それはともかくとして、ぼくが岡崎京子よりひうらさとるにずっと親和するのも同じような理由で、岡崎の作品が「オトコノコはオトコノコ」的な、あの2つの雑誌の追いかけっこのような螺旋状の感覚がいつまでも続いているのに対して、ひうらのアプローチはもっとずっと単純に見える。それは岡崎が「見られる性」を描きひうらがそれを描き得なかった(あるいは「見られない性」を描いたのだろうか?)からで、「オンナノコ」を描く際のひうらの「甘さ」(下手さ)にちょうどぼくは排除されず入り込むことができたのかもしれない。
「オトコノコはオトコノコ」的な恐怖に出口がなくて、どのルートを選んでも「分かってない」的バッドエンドしか迎えられない状況から、だからぼくやぼくでない人たちが選んだのはトゥルーエンドのある物語で、キャラクターの攻略はそのまま「オンナノコになる」願望を満たしているのかも。けれどもそもそも、あの「ホンネ」に回収された/されなかったオンナノコたちはオンナノコになったのだろうか? 「ほんとうのオンナノコはオンナノコになんかなりたくない」ようにオトコノコたちもそうなのだとしたら、反転してもう一周追いかけっこをするだけなのだろうか?「オトコノコはオトコノコ」としたり、あるいはトゥルーエンドを与えてくれたりしたオンナノコたちは、そもそも実在するのだろうか? そんな風なぐるぐるからひうらはあくまで愚直に明晰であろうとして(あるいは結果的に明晰になってしまって)、岡崎はあくまで理知的に混沌であろうとする。どちらが優れているというのではなくて、どちらかをぼくはその時々に選んでゆくというものなのだし、ぼくが執拗にひうらさとるを男性に読ませようとしてるのもそういう理由なのかも。
滝本竜彦はオンナノコになりたかったんじゃないか」という思いつきの元になったものは自分のid:sayuk:20030907#p2の文章にあったことを思い出しました。そもそもなぜ滝本竜彦なのかというと、文学フリマで入手した「新月お茶の会」の滝本竜彦本『ゲーム脳』(id:moyu0id:HRUTid:tenkyoin氏執筆。なんて近いはてな世界!)をちょうど読んでいたからなのですが。