理解と交差

最近のこの日記の流れで考えているのは、例えば女子高生100人にインタビューするような行動は100人切り願望と同じような意識なんじゃないかとかそういうことです(逆に「バーチャルネットアイドル」とかってそういう願望からの脱却を図っているんじゃないの?とか)。例えば食べることがその生き物の魂を身に入れる=その生き物を支配すると考えられているように、あのインタビュアーたちは擬似セックスとしての「対話的理解」という方法で理解できない対象を支配しようとしているのではないか。
この日記にしてもそれでなくても僕は少女漫画とか女性文化(とされるもの)の話をいつもしていて、それは単純に趣味の問題なんですが、その時に必ず感じてしまうのが、ある女性文化(とされるもの)をめぐる言説が複数あるとして、その正当性の解釈をする際に話者の性別の参照が無意識になされる状況(あるいは、それがあるのではないかと危惧してしまう自分自身)への違和感です。ひらたく言えば、オンナノコが語るオンナノコ文化をオンナノコというだけで過剰に信頼するような意識が僕や僕でない人たちの間にあるのではないか、ということ。それは単に、任意の女性に女性性を押し付ける行為なのではないか、と思って、id:sayuk:20031116#p2みたいな「オンナノコになっちゃえばいいんじゃない?」みたいなパフォーマンス(なんていう言い方はとても狡いので、やっぱり僕には「オンナノコになりたい」という無邪気な考えもあることも併記しておきます)もそういう考えの延長線上にあるのかもしれません。もっと拡大して言えば、ある理解の根拠をある人々に依存するのは、逆にその人々をその理解で拘束したいという意識なのかもしれないと思います。


flurryさんの日記で興味深い引用がいくつかあったのだけど(http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200311.html#14)、とくに最後の内田樹氏の日記の引用が上のような考えにちょっと関係があるような。
欲望を知ろうとする、あるいは単純に、理解しようとする、という意識は、理解に対して必ず「理解される」という応答が返されることを無批判に信ずるというある種の暴力性を持ったものなのではないか。そう思ったのは、内田氏の挙げる話が別に男女論とかそういう問題じゃなくって、例えば大人と若者とかそういういろいろな対立で生ずるものなのではないかと感じたからで(「大人は判ってくれない」なんて言葉はまさにそれだし)、あるいは個人的なことでいえば、東浩紀氏やその他の「オタク文化分析」みたいなのに僕が反射的(非理性的)な違和感を覚えるのもそういう理由じゃないかと考えるからです。
いくつかの少年犯罪などで容疑者の書棚やPC内のデータ(最近ではワードローブとかも)などが参照されてしまうことに嫌悪感を感じてしまうのは、それがもし自分の身に起こった際を考えてのおびえがあって、それは恐らく自分自身と全く思考の来歴が違う他者が数冊を漁った所で(あるいはすべての書棚を漁ったとしても!)同じ「理解」に達するはずはないという意識のせいなんですが、それが過剰な自負だとしても、「私はそれじゃない」と言い続けることが、ある種の「暴力的」な理解に抗する数少ない方法のひとつなのではないか。逆に言えばそういう反応を示されること自体が、その「理解」があのインタビュアーと同種の無邪気な支配感を含んでいることの証明なのではないか。
またもやこの日記は日記タイトルへの言及をするのですが、対象を常に自己の向こう側に、例えば内田氏の文章であれば「女性」であったり、あるいはこないだの事件のように「『私たち』の知らない趣味の世界」であったりに置くのは「交差(cross)的理解」というようなものなのではないかと思います。例えば女子高生100人にインタビューするのは100の直線と交わることで、100個の交点ができてそれぞれの点は確かに「理解」なのかもしれないけれど、それを結んだものは決してどの直線にもならない、というより自分自身という線に近似したものにしかならないのではないか。だとすればそれに対するものとして、それぞれの線に寄り添うような「漸近(close)的理解」というものがあって、僕や僕でない人が「私はそれじゃない」の砦から少しでも首を出すとすればそういうものに対してなのかもしれません。