小玉ユキ『光の海』

あんまり更新しないのもなんなのでこないだやった少女漫画読書会のてきとーなレジュメを貼ります
(一部変更してあります)



少女漫画研究会 読書会第6回  担当:sayuk



小玉ユキ『光の海』
小学館、flowersフラワーコミックス、2007年)



1)作者紹介(一部単行本の情報より)
小玉ユキ:2000年、CUTiE comicにて「柘榴」でデビュー(コダマユキ名義)。同誌で数作描くが、2001年に同誌休刊後は、2005年よりflowers誌にて作品を描き始める。2006年にペンネームを「小玉ユキ」に変更。「光の海」シリーズを描く。2007年、同作が初単行本となる。現在はflowersで「羽衣ミシン」を連載中。



※flowers:2002年に小学館系の少女漫画誌別冊少女コミック」と「プチフラワー」が、名前を「Betsucomi」と「flowers」と変えてリニューアル。作家陣も、「Betsucomi」は若手作家(どちらかというと「別冊マーガレット」に近い作風の作家)、「flowers」はベテラン作家になり、特にそれまで「別冊少女コミック」に描いていた吉田秋生赤石路代渡辺多恵子(『風光る』)・田村由美(『7SEEDS』)などがflowersに移籍した。それまで隔月刊誌で、萩尾望都残酷な神が支配する』が連載されていたが雑誌自体は今いちの知名度だった「プチフラワー」だが、リニューアル後ベテランの少女漫画ファンやコアな読み手を引き付け、白泉社「メロディ」(97年創刊)と並び新しい少女漫画(ヤングレディース)市場を開拓した(それまでヤングレディース誌には「YOUNG YOU」や「kiss」のような、キャリアウーマンを主人公とし現代が舞台の、いわゆる地に足を付けた作品が掲載される場はあったが、ファンタジー・SF設定の作品が載る雑誌はあまり無かったといっていい)。その中で近年では、小玉ユキの他、岩本ナオ江平洋巳など、24年組の系統を新しく受け継ぐ若手の育成にも力を注いでいる(元々、「flowers」掲載作はB6版のflowersコミックスで出版されていたが、岩本ナオの2作および本作は初めて*1「flowersフラワーコミックス」という新書判のある意味新しいレーベルで出版されている。この点も新しい読み手・描き手を開拓しようとする意志がうかがえる)。一方、「Betsucomi」は長期連載が抜け厳しくなると思いきや、小畑友紀『僕らがいた』や芦原妃名子『砂時計』のヒットで持ち直しつつあり、別冊マーガレットと並び中高生向けラブストーリー誌として注目されつつある。



2)各作品
 いずれの作品も、「人魚」が棲み、人間と交流のある町を舞台に描かれている、連作ストーリーになる。しかしそれぞれの持つテーマは全く別個で、そしてそれぞれが、今まで少女漫画が醸成してきたテーマを再生するようなものになっている。同じモチーフでそういったことを成し遂げるのはかなり困難な作業ではないかと思う。
そういう意味では、少女漫画を初めて読む人にとっても、この作品集はその基本的な展開、思考回路を知るのに理想的なものに思える。各作品でどういった「基本」が用いられているかを押さえてゆきたいと思う。



a)「光の海」
「奔放だが天才肌の人間(兄弟・友人など)」と「秀才肌で努力型の主人公」という構図(名前自体「光胤」と「秀胤」だ)は少女漫画において、またそれに限らずさまざまな作品ですでに何度も描かれたもので、改めて一定以上のものとして描くというのはかなり難しい気がする。作者はあえてその題材を連作の第一作として選んだ。
 結末自体は非常にオーソドックスだけれども(天才型も実は秀才型を認めていたのだ、という話と、天才型が姿を消すことで秀才型が自分の中にあった相手の存在の大きさを再確認する、という2つの展開)、そこに人魚の存在をからめることで、失った相手の姿を(それが実際にはできることではないということを知りながら)自分自身がそれに成り代わろうとすることで追い求める、というやはりオーソドックスだが感銘を受けるラストでまとめている。
(これは他の作品にも言えることだけれども、)このオーソドックスな話の根底にあるのはやはり「理解」(あるいは、理解の不可能性への理解)の物語だと思う。母と子、姉と妹、相容れない同性(異性)などさまざまな関係があるけれども、初めは全く自分と趣味も思考回路も違う人間だと思っていた第零段階。相手が、実は相手にも意識があり、理想があり、感情があると知る第一段階。しかし決して自分は相手になれず、相手は決して自分になれないと気付く第二段階。けれども、誰かが誰かに成り代わることができなくとも、それでも誰かが誰かの気持ちに寄り添うことへの意味は(それがどんなに困難で不可能だったとしても)あるのかも知れない、と思う第三段階。そして、その段階を通して初めて、相手が自分でなく自分が相手でないことの重要さを再確認する第四段階(あるいは、それ以上の段階もあるのかもしれない)。そういう意味では「光の海」は秀胤の視点が勝ち過ぎているようでちょっと惜しい気もする。



b)「波の上の月」
 主人公がかつてのルームメイトだった女性に対して持っていた、そして今でも捨てきれない感情。「ずっとあの時が続いていればよかったのに」という思いに対し、時間とともに状況は無情にも変化してゆく。その変化を認めきれないまま、しかし主人公は彼女に会いに行く。
 主人公はそこで、自分の感情と似たものを持つ人魚の男の子と出会うのだけれど、この「似た感情」はいくつかの点に分かれるだろう。
ひとつはそのまま、1)「同性を好きになってしまったこと」、それから、2)「ずっとあのままの関係」を望んでいること(成長の忌避)、3)しかし状況は必ず変化してしまうこと、4)自分の感情を伝え切れていないこと(たとえば主人公が、京子が離れるときにキスしようとして、結局冗談に紛れさせてしまったこと)。「波の上の月」はそのそれぞれの点を、主人公と人魚との出会いによって、ひとつひとつ巧緻な形で解き放ってゆく作品といえる。
 何点か、個人的に面白いと思った点を挙げてみる。
・人間という、男性/女性が分かれた生き物に対して、人魚の生態の、少年期には同性間の擬似性交がある生き物を出したのは一見、たとえば『11人いる!』のような別の形態の性を扱っているようにも思えるが、実際には人間にも同じく少年期に同性での擬似恋愛関係があること、しかしそれはほんとうに「擬似」としてしまってもいいのか?という疑問を投げかけているのかもしれない。
・ひとりだけで悩んでいたことが、同じ悩みを持つ者と出会い、彼(女)がその悩みにひとつの解決を与えるのに立ち会うことで、自分自身の悩みも緩和される−−主人公と人魚との「悩みの共有(共犯)」の関係は数多くの少女漫画にみられる、そしてまさに少女漫画と読者がそれまで築いてきた「共犯関係」と一緒で、驚いてしまう。(もうひとつの「関係」については次項で)
・そして、「私(主人公)と男の子が同じ存在(同じ魂を持つもの)」とするだけでは、少女漫画の作品としても、そして少女漫画と読者の関係としても不十分なのだけれども、そこから一歩踏み出したこと、同じ地点に留まるのではなく(方向性は一緒でも)別の道へ向かうこと(例えば、『少年は荒野をめざす』のラストを思い浮かべてほしい)も、主人公と男の子が「髪型を交換する」こと(まるでリレーのバトンのように)で果たしている。
・恋愛関係が、たとえば恋愛の成就としての結婚(や家庭)を産物として要求してしまうこと、あるいはそうでなくても、恋愛自体がなんらかの関係の産物として要求されていること、に対して、成就しない恋愛、あるいは成就しない関係でも何かを残せるのだと考えて、そうして二人が共犯したのは「傷(としての思い出・記憶)を残すこと」だったのは興味深い。


 そして、個人的にこの作品を読んで真っ先に想起したのは、大島弓子パスカルの群れ』と水人蔦楽教えてあげよう』だった。とくに前者はまさに「傷を残す」話であり「共犯する」話であり、ひとつの「同性を愛する感情」が別の同じ感情をうきあがらせる話だからだ。(後者は同人誌の作品なのだけれど、やはりさまざまな点で共通点がある)



c)「川面のファミリア」
 ひとりだけで持っていた「過去(の悲しいイメージ・記憶・思い出)」が、ある日ある人が違う解釈をすることで肯定され、幸せなものと変わる(枷がはずれる)−−107ページのくだりは数多くの少女漫画にみられる、そしてまさに少女漫画と読者がそれまで築いてきた関係と一緒で、驚いてしまう。(そして、やはりこのシーンから大島弓子ジイジイ』の1シーンを思い出してしまうのだが)
 娘と新しい母との和解、というのもやはり多くの作品で描かれているものだけれど、それはその設定が、主人公が初めてしっかりとした意識を持った状態で「他者」を「自分に関わる者」として受け入れる、ということが描きやすいからだと思う。そしてその過程において逆に、今まで「自分に関わる者」だった親が、初めて自分と違う意識を持つ「他者」として立ち現れる、ということも重要かもしれない。
 そしてその「他者」は、新しい母が現れる前にも、実は一度経験している。106ページのシーン、両親がただ自分を庇護する存在ではなく、自分とは無関係に感情を交換し合う存在であることを知ること、その最初の「遭遇」は、前述したように主人公にとっては一つのトラウマだったのだけれど、それを新しい母との経験は塗り替える。消去するのでも、心の奥底にしまい込んで忘れようとするのでもなく、そのままの経験(した光景)を、まったく違う角度から見せる。新しい「他者(人魚)」は幸せな記憶で、そしてかつての「他者(となってしまった両親)」との遭遇も決して悲しむべきものではなかった、と主人公は知る。
 他の作品でもそうだけど、人魚という存在が、人間が作る、そして先に進まないまま往生していた「関係」を打破する存在として描かれるのは面白いと思う。現実に風穴を開けるという意味でこの人魚たち、そしてこの作品は、正しくファンタジーなのかもしれない。



d)「さよならスパンコール」
 中学生?の女の子の恋心を描いているという意味ではいちばん少女漫画的かもしれない。簡単にうつろいやすく壊れやすい思春期の関係と感情を、その壊れやすさのままに上手く描いている。
 友情が恋愛によって壊れる話、と見るのは簡単だけれども、本当にそうだろうか? むしろ、153ページ下の先輩のないがしろのような姿を見ると、もしかしたら本当に恋愛が存在していたのは主人公と人魚との関係だったのではないか。(よくよく考えると、男の子との恋愛の破綻によってかえって女同士の友情が深まる、みたいな話も少女漫画には散見される気がする)
 救いなのは、151ページの人魚の表情が、(いなくなってしまう前のものにもかかわらず)晴れやかなこと。うつろい離れた関係が、しかし不動の永遠の関係に劣っているものではなく、そこに確かに「関係」があったことだけが重要なのだ、ということを示している(最後に「私の大切な宝物」と呼ぶ、それは、成就しなかった・壊れてしまった恋愛(を含む関係)が、しかしそれは決して捨て去るものでも、成就されるものに対して劣るものでもなく、一つ一つが等価に大切なものなのだ、ということを示している)。同時に、うつろい壊れやすい世代・関係を描きがちな少女漫画(と読者)への肯定とも読むことができると思う。




e)「水の国の住人」
 今まで人魚が人間同士の関係の媒介として描かれてきたのが、最終話らしく、はじめて人魚と人間の直接の関係が描かれる。もちろん、そういう部分は今までの各話にもあって、それぞれで描かれてきた人魚を拾い集めてこの話ができたといえるだろう。
 人魚が現実に受け入れられているこの漫画の世界でも、やはり人魚は「この世のものとはとても思えねえ」「向こう側」の世界の住人である。それはこれまでの話を見ても明らかで、人魚は常に主人公たちの(そして読者の)世界に、違う視点、違う価値観を持ち込むことで、彼らの意識や行動に(そしてストーリーに)見えなかった道筋を与えてくれる存在である。主人公たちは(そして私たちは)その向こう側の「新しさ」に時には驚き、時にはおびえることもありつつ、しっかりと糧にしてゆく。そういう意味では、「人魚」はそのまま「少女漫画」とイコールだと言えないだろうか? 私たちが少女漫画を読むのは、そのまま「水の国の住人」の話のような、人魚の住む水辺=異界への旅ではないだろうか?
 178ページ「俺のこと見ててくれたのか?」、家に帰りたくないと思っていた主人公の気持ちを見透かしている(そしてそのことを知られていることが、主人公にとっては気恥ずかしくもありつつ、ひとつの癒しとなっていたはず)人魚の存在。常に傍にいる伴侶や友人ではない、たった一瞬の出会いや関係、あるいは一言の言葉だけかもしれない、しかしそういう存在が時には長い時間を経た関係を凌駕しうることもある、その後何十年を支えてくれるものとなることもある(尾崎衣良夢の欠片」を思い出そう!)。そういう存在、関係がありうることを確かに私たちは知っている。そして、それは時には人ではなくて、たった数十ページの漫画であることもある。「水の国の住人」のラストの画面は、私たちと私たちの経験した関係が、その未来からの回想において幸福であると映ること、そして私たちの少女漫画の幸福さを描いているように思う。(この一編に限らず『光の海』は、一見素朴な少女漫画作品のように見えて、実はそのものが少女漫画自体をメタ的に語っているところがないだろうか?)


光の海 (フラワーコミックス)

光の海 (フラワーコミックス)

*1:あとで調べたら『7SEEDS』や『イヴの眠り』あたりの別コミ→flowers移行組もこのレーベルみたいですね。訂正します