麻生みこと『天然素材でいこう。』文庫版2巻10ページ5コマ目のこと

 作者自身、作風のひとつに「セリフが多い」ことを挙げてるように、麻生みこと『天然素材でいこう。』はとにかくよく喋る漫画。頭の回転の速そうな会話の応酬も魅力だし、モノローグでさえ話すように言葉が流れる。単純に文字の情報量だけでも、普通の漫画の倍以上はある感じ。
 けれど文字であふれる画面を作る一方で、『天素』は「無声」のコマにもメッセージを詰め込む。9話「お前には渡さない」の冒頭は、三千院の本気の告白を「何かの間違い」と言う二美に、千津が「本気にもしてやらないなんて無神経にも程がある」と斬るシーンだ。二美と分かれたあと千津に「さっきの…俺に言ったのか?」と訊く高雄に、彼女は「勇ちゃんは私が本気だって分かってくれてるでしょ?」と返す、その間に挟まる、ほんの小さな無音のコマ。半分に見切れた千津の、大きく描かれた瞳が印象的。


 2コマ前、高雄を独り占めしようと腕を引いた彼女は、けれども彼のほうを見ていない。言葉は、何気ない、ただ嫌いな相手にぶつけようと思った言葉は、数コマのディレイを経て二人に、もうひとつの「無神経」に返ってきて、その反動との葛藤が彼女の視線を遠くへゆらがせる。「俺に言ったのか?」という発言に続く千津の表情は、はじめは彼がその「本気にしない」関係にきちんと心を置いていてくれたこと、罪悪感を感じていてくれたことへの満足だったはずだ。今すぐ「本気」になることは初めから期待していないけれども、もしかしたら本当に「無神経」で、そしてそれはそのままなのかもしれない、わたしだけがこの言葉にゆらいでるのかもしれない、というわずかな怖れを打ち消す台詞。
 でもそれが疑問形であることで、その「表情」には小さな痛みが混じる。罪悪感は生まれたのかも、けれどそれが本当の「罪悪」を軽減するための防御だとしたら? 「言ったのか?」という先回りの発言への答えはたとえ肯定でも否定でも、(二美に対する)はじめの鋭さをもって貫けない。高雄の言葉は実際、「本気にしない」ことよりもずっと攻略の難しい態度だ。
 だから千津は同じ「表情」ですぐにその「次の一手」を探る、9話の冒頭でもいちばん大きな眼をもって高雄に相対し、彼がほんとうは何を考え、何を意識しているのかを見通そうとする。「分かってくれてるでしょ?」という切り返しの、何よりもびっくりしてしまうのはその疾さだ。ゆらぎや逡巡を一瞬で置き去って、いつでも相手の眼前に迫ってゆく、それが「千津ちゃん」の魅力の筆頭だってことは、わたしたち読者がいちばんよく知っている(高雄氏なんかよりも!)。――たった一つの小さなコマで、言葉を受け止めること、それによって感情が揺らぐこと、その揺らぎを吟味し解消すること、そしてその言葉への対応を計算することが描かれる、台詞の谷間のように何気なく置かれたコマは、『天素』のなかでももっとも情報にあふれた箇所だ。(そしてそんなことを逐一言葉で説明しようとするこの文章の無粋さたるや!)


 言葉は水面に投げ入れる小石のよう、というのはごくありふれた表現で、けれど一つひとつの波紋をていねいに描こうとし続けてきたのがまさに少女漫画だと思う。『天素』はただ台詞を縦横にあふれさせるのではなくて、それぞれの言葉に対する波紋/想いや表情を、さらには想いに触れ生まれる想い、表情に呼応してつくられる表情をきっちりと絵に、漫画にしてゆく。そして付け加えるなら、ココロの反応速度は台詞やモノローグよりももっとずっと速いので、しばしば読者への手助けのために「無声」のコマをバッファとして置かないと、彼ら彼女らにはどうやっても追いつけないのだ。(ところで、その次のページで「大人になったなあ」と呟く高雄の、ほんとに、ほんとーに頭の悪さったら!!)


天然素材でいこう。 第1巻 (白泉社文庫 あ 5-1)

天然素材でいこう。 第1巻 (白泉社文庫 あ 5-1)


※あと、『天素』でいちばん印象的な「無音」のコマは2巻216-217ページ。わたしがあなたをどう想っていて、あなたがわたしをどう想っていないかが、一度、二度、三度と数瞬のコマのうちに往復するシーン。
※やっぱ画像は消してみた