「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」舞城王太郎/「もう1つの性器」

(なんかいつも以上にアレな文になってしまったので注意。すみません)
ファウスト」掲載の1編目。何ていうか、デジャヴュ。以下id:sayuk:20030903#p2より引用。

暴力とセックスとドラッグでしか物語的特異点を得られなかった、ある意味もう1つあったはずのペニス(ヴァギナ)を去勢(縫合)されたオトコノコ達のために『マリみて』のブームはあるんじゃないの?

自分の文ながら唐突にみえるこの文章(考え)が浮かんできたのはちょうどこの日、舞城王太郎世界は密室でできている。」を読んでいた(というかこの本が舞城初体験だった)時で。もちろんこの本にはジェンダーの話なんて出てこないのだけれど、その特にラストを読んでいた時に、舞城の描く「ノワール」とも言われる暴力性・荒さはちょうどここで言う(かつてのそういう小説に満ち溢れていた)「暴力とセックスとドラッグでしか」得られないオトコノコの(子供っぽい)「物語的特異点」ではなくて、もしかしたらもう1つあるはずの(かつての、去勢される/されないの2択だった性器をめぐる言説に対して「もう1つ」とか思わせてしまう所も個人的に面白いのだけれど)性器に基づく感覚なのではないか。本当は僕たちは複数のペニス/ヴァギナを持っているはずが、そういう物語的特異点の刷り込みやもっと直接的に「自然な性役割の自然な認識」や「第二次性徴」という名の洗脳やあの必ず顔射で終わるAVとかで他の全ての性器を去勢/縫合されているのではないか、「世界は密室でできている。」にある主人公達の感覚と冒険に気持ちいい違和感を覚えるのは、彼らがまだそのいくつかを去勢されず残したままに描かれているからではないか、ということをだーっと考えたのでした。
google:舞城王太郎+ジェンダーではかんばしい結果は出なかったけれど、その2日後に出た「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」を読んで眩惑的なデジャヴュに襲われたのはそういうことで、まさにその「もう1つの性器」を持った少年少女がしかもどちらを使うか悩んでいて、さらに(以下ネタバレなので反転)性器が交換可能(誰でもいい)ことに悩んだり、元からあるペニスまでクリトリスに変わったり、世界を救うためにその少女を殺す展開になったりと詰め込み過ぎで今すぐは分析できないんですが、まあそれ以前に(ファウストのライナーノーツにあるように)メタ視点が何とかって話になると思うのでその辺は他の人に任せて、とりあえず僕は他の作品全部さらってからもう一度まとめてみることにします。もしかしたら舞城はかなり前からこういうことを書くのを意図していたんじゃないか、と思って初期作から読めば違うものが見えるかも。(ってゆーか正直いって今まで、あの文体と「ミステリノワール」とか書いてるの見て舞城作品を敬遠してました。あーどうせ「俺のペニスはこんな硬い」とか言いたいんでしょーとか思って。ちっがうじゃん!騙されてたよ)
で、この辺でそういえば松浦理英子の「親指Pの修業時代」とかあったけどどうだったのかとか思い出すのだけれど、松浦はもともとから「性器結合中心的性愛観」への批判とか書いてて↑の話と微妙に近いところにあるかもしれない。これだけでid:sayuk:20030903#p2で言ってる「父性の不確実性コンプレックス」を解体できるかはちょっと微妙だと思うけど、直線的な(男根的な)欲望ではなく複数に分散されることを想定することは十分に意味があるはず。
マリみて」話に繋がるのはもう少し先になります。