トランスベスタイトへの連続性

id:sayuk:20030924#p2に関連してまた個人的な話で、今日久しぶりに(ここで言及されている)「ワンピース」を(言及されているように)着てみて、その着るという行為で初めて思い出したのだけれど、僕にとってこの服は「正常装」からトランスベスタイトへの連続性の証明なのだと思う。身体的(サイズ的)問題から着始めた女性物ジーンズ(=別の場所に必然性があった)から、Tシャツやバッグあたりの、外見的にはトランスベスタイト性が薄いけれどもトランスベスタイトへの意識はあった地点、それに続く「確実な女性物」を非トランスベスタイト的な外見(実際には半々から少しトランスベスタイト寄りあたり。さらに言うとこの中間辺りの服も持っていて、さらに連続性の意識を補強していた)として着る地点への連続性は、さらにその先として例えばロングスカート等の「向こう側」を決して向こう側にしない感覚を持たせてくれて、それは多分着ることでしか思い出せない。そういう企図を支えうるバランスがこのワンピースには絶妙なレベルであったのかも。id:sayuk:20030924#p2で述べた「ソフト・トランスベスタイト」なんて言葉ももしかしたらこの服がないと感覚として得られなかったのかもしれなくて、というか一般的なトランスベスタイトへの断絶感はそれを埋めうる経験、さらに裏打ちとなる「服」が無いと(実際に無いのだけれど)そのままなのかもしれない、なんて(経験主義は嫌ってるのだけれど)思ってみたり。*1
FtMトランスベスタイトと非対称なMtFトランスベスタイトの拭い切れない「正常装」との断絶感、「向こう側感」は、他のさまざまな指向に含まれるジェンダー意識(例えば「料理」や「少女漫画」が趣味な男性に対してもそれほどの断絶感はないと思う)と比べても大きい気がする。ちょっとこの辺の理由は仮説程度しか出せないのだけれど、1つは服装が他の指向に比べて社会性が高いこと、さらに男性の服装のバリエーションが著しく小さい(ほとんどスーツか学生服といったような感じ)ことは理由にあるかもしれない。服装が他の指向に比べてより性的な意味を多く持つというのもあるだろうか。ホモセクシュアルトランスベスタイトがしばしば混同・同一視されたために、ホモフォビア的抑圧を最も強く受けたのかもしれない。トランスベスタイトへの連続性という意識に加えてその辺りの原因の分析も「向こう側感」の解消には必要なのだろう。
なんか最近個人話ばかり書いてるんですが、メンズリブ批評とか最近読むとみんな個人的来歴から話はじめてるんだけど(結構面白い。今の視点で再構成して「栄光の過去」っぽくしてるのもあるけど)そういう風にしか至れないものなんでしょうか。僕の場合こういうこと考え始めたのって水人蔦楽(と前提として松浦理英子長野まゆみ)のおかげなんだけど、今みたいにジェンダー批評的なものが多く出ていると小中学生の「男子」「女子」の時代から、あるいは特に個人的事情の発生しない時期から自然にこういうことを考えてる人もいるのかもしれない。

*1:追記。ただ少なくとも、トランスジェンダーやトランスセクシュアリティが「正常」との間に連続性を構築しつつある状況(ジェンダー批評に触れた人ならほとんどが、自分の中にある割合で女性性、さらには同性愛性があることを確認しているだろう。「男性」「女性」がいるのではなくて男性的な部分と女性的な部分をどの人も持ち合わせていて、その比率が違うだけなのだというジェンダー批評の言葉は容易に受け入れているはず。)と比較すると、MtFトランスベスタイトが未だに立ち遅れてる(男性的な服装と女性的な服装をどの人も持ち合わせている、という認識は女性にしか発生していないように見える)のは確か。それは一方で「トランスジェンダーも同性愛も自由じゃない?」という意見が内在的ではない、「個性」論の一環にしかなりえていない状況も見せているけれど、もう1つは服装、「服飾すること」に関する認識がそういった机上論理的なものでない、より身体的な感覚からしか立ち顕れないものだからかもしれない。関係ないけど、正常/オタクの断絶感はどのように説明されたのだろうか?