スピッツ「ロビンソン」

昔書いた文章を発掘するテスト。スピッツ「ロビンソン」が出た当時(高校生)に書いたもので、タイトルは「『癒し』としての音楽、恢復する都市」でした。

セツナサ、それはたとえば「重さ」とでも定義してみたらどうだろうか。決して強く激しいものではない、心臓の下の時計型の皿に、少しずつ載せられてゆく砂の錘。指の腹で押されるような、とても小さな鈍痛が胸の辺に拡がりはじめる。全ての動作が意識的でないと出来ない、水中を歩くのに似た不安と焦燥感。それは、ひとたび付くと、何度洗っても拭っても落ちずに残っている汚れ。
それはちょうど、灰色のほんのちょっとだけ混じった白という色で知覚される、僕らの「都市」に似ている。どこへ行くあてもなく、何も欲しいものがないのに何かを探しているふりをして、昨日は今日で今日は明日、見えない塵がいつのまにかうっすらと積もっているのを僕らは目にする。そんな中で僕らはふいに痛みを感じる、セツナサという重さが発する鈍い痛み、まとまりのない要求に立ち止まっても、やっぱり僕らにはどこへ行くあてもなく、何かを探しているふりだけしか出来ない。重さを持った「都市」の中から、僕らは脱出することも出来ない。うす汚れた〈丸い窓〉、〈呼吸をやめない猫〉、それらは全て僕らの一部だから。「都市」は僕らであり、僕らは「都市」だから。薄緑色の雲の下で、終りの分らないモラトリアムを生きている一、〇〇〇万の孤独な「ロビンソン」たち。風に飛ばされ、空気の澱みにうずくまる紙屑のように、僕らは都市を漂流している。
だから、僕らは〈浮かべ〉るのだ、〈ありふれた魔法〉を使ってつくり上げる、蝉の脱殻のように軽い空中都市を。猫も建物もみんな浮かべて、空の「ロビンソン」百貨店、〈誰も触われない〉僕らだけの国を。空中都市は漂流する、すべての重さや痛みを取り払って、たくさんの蒼蓋は少しずつ治癒し皮膚と同化して、穏やかに全体が快方へとむかいながら。僕らは誰よりも軽くなろう、碧青色の駒鳥(ロビン)のように、数十グラムの重さで空に浮かびあがって。  そう、例えばいくつものセツナサを抱え込んでいる人、自分の重さで動けなくなっている人、そういう人たちに僕らは言葉をかける。小さなロビンソンたち、孤島は今ここにある、地図上からほんとうの孤島がなくなったとしても、空を少し見上げれば。都市の中で始まるもうひとつの「ロビンソン・クルーズ」、ヒーリングにも近い一つの通過儀礼が、もしかしたら僕らには必要なのかもしれない。そうして、セツナサが色とりどりの風船に変化して、僕らの「都市」がついに成層圏を突き抜ける時、アタタカク涼しい〈宇宙の風〉を、僕らははっきりと感じることができるのだろうか……。

癒しがどうとか書いてるけど多分この頃は「癒しブーム」が始まったばかりで、そのブームを当時の自分は苦い思いで見てたに違いない。id:sayuk:20031001#p2でも同じようなことを書いてるけど、これを書いている時の僕は「人(物語)が人を癒す」なんてことは全然信じてなくって、ただ、何にも効果はないけれど蛍光灯の「黄味がかった光」のようなもので包むことはできる(抽象的だけど)みたいな考え方だったと思う。多分中学生の頃に読んだトマス・ピンチョンの「スロー・ラーナー」で紹介されていた熱死とかエントロピーとかのイメージがずっとあって、その頃読んでた小川洋子とか野中柊とか辺りにもそれを投射してるはず。「黄味がかった光」(あるいは、暖色系だけれども暖かさを感じられない「黄色」)のイメージからその頃の僕はそういう感覚を「yellow」と呼んでいたので、今後機会があればこの「yellow」について考えてみます。
そういえば少女漫画ラブストーリーの中でこの「yellow」を表している稀有な作品が水人蔦楽「バランス」で、その手法ではじめて、恋愛至上主義に陥りがちな同ジャンルで全く違った方向からのアプローチが可能になったのだと思う(おおいま奏都あたりもそのあたりの血を引いてるのかも)。その辺も考えてみます。