前の話を蒸し返す(?)と

id:sayuk:20030921#p2で引用しているtskmryさんの文章(id:tskmry:20030914#p2)について、

ヲタクとは「××が嫌い」(学校がキライとか誰ぞやがキライからA×Bのカップリングはキライまで)という不毛な主張を捨てて、それぞれ「××が好き」だけを表現することによって相互不干渉で上手くやってきましょ、ってコミュニティなんだと思うけどなー。

というのと、実際の(男性のみ?)オタクの現状とは違っていると思っていて、ここ最近は「はてな」や他の「オタク批評」サイトを見ていると、何というか誰もが「ギョーカイ人」的な立場に立ってオタク文化について語っているように見える。「一億総ギョーカイ人化」って誰が言い始めたんだっけ? ともかくなんか分かったような振りで流行とかシーンの流れとか分析とか裏情報とかを語るような言説が多くて(当然ながらしっかりとした分析もある)、もちろん自分もそういう書き方を気付くとしているので、id:sayuk:20031006#p1(やコメント欄id:sayuk:20031006#c)で書いたのもそういうものに対する自己嫌悪だったのかも。(あるいはマイナー指向なのも、誰も語らないものを扱うことで「ギョーカイ」的なものから離れようとする無意識的なもの?)
で、僕が最近まで東浩紀氏の著作を読んでもないのになんとなく嫌っていたのも多分そういう嫌悪感なのだろうけど、ようやく『動物化するポストモダン』とかを読んでみるとそれが大きな誤解だって分かって、(はてな日記とかでもうすうす感じてたけど)オタク文化やその他の事象に対するずっと真摯な態度がある。(例えば、「自分が上の世代と下の世代を繋がなくてはいけない」みたいな発言にもそれは非常に感じられた。萌えポイント?)
多分「ギョーカイ人」的な態度の蔓延というのは、「提供する/情報を持つ側」と「消費する/情報を与えられる側」の階級差がそのまま「論じる側と論じられる側」にシフトして広がった状況なのだと思う。「動物化」という東氏のキーワードにもそういうものをはじめ感じていたのだけれど実際はそういうことはなくて、事実を事実のまま階級をつくらずに扱う手付きを「科学的」というなら、東氏の方法は非常に「社会科学的」だった。そういう点への信頼。
さてはて、僕は半年ほど前からちょうど「ギョーカイ」的な、というかもっと言ってしまうと「資本主義」(!)的なものへのある種「潔癖症の女子中学生のような*1」嫌悪感が根付いてしまって、社会生活に支障が出るほど深刻なものだったり。他人の言説はともかく自分の日記を書いてるだけでもしばしば自己嫌悪におそわれるのだけど、「科学的」な手付きを取るのは当然としても、それでも(外部から、および無意識から)入りこんでしまうものへの折り合いをどう付ければよいのか。
ここまで書いてみてid:kojinさんで同じような話をしていたのを思い出しました。こことかこちらでしょうか。自分はそこまで「マッチョ」という言葉を抑圧的には捉えてなかったんですが、「既成の価値観を受け入れ、社会的な成功をまっすぐ目指す(引用)」程度には捉えてるかも。で、論じること・発話することがイコールマッチョな(資本主義的な)もの、階級を生成する抑圧的なものとする捉え方は、全て男性は女性を欲望し搾取するもの(遺伝子)とする「父性の不確実性コンプレックス」(id:sayuk:20030903#p2。なんか何度も引いてるけど、それだけ自分にとって重要な命題なのだろう)と同様のものなのかもしれない。
そういえば僕は中学生辺りの頃に、小説の優位性として「発声しない*2メディアであるゆえにネガティヴなものを唯一純粋に扱える(「発声すること」それ自体がポジティヴ性を纏うから)」って考え方をしていたのだけれど、僕が(小説を書き始めた中学生の頃から)目指していたのはそういう「発声しないメディア」だったのかも(そう考えると意外に早くからマッチョへの嫌悪があったのだろうか)。「aboutid:sayuk:19010102にもある「永遠に漸近する、交差しない(目盛りを刻まない)」という態度もそういうのに根があるのでしょう。
まとまりませんでした。

*1:前にこの通りの言葉を言われたことがあります。座右の銘ランキングではないけど「生涯言われた言葉ランキング」には入ると思います。

*2:広義の。音声に加えて絵も「発声」としていたっぽい。