新井素子

本日の有里さんに紹介戴いたんですが(ありがとうございます)、そこの紹介文が〈「オリーブ少年」だったというsayuk氏〜〉となっていてこそばゆい感じ。ていうか本物のオリーブ少年から刺されそう。だってOlive本誌なんて2回しか買ったことないし(古本で昔の10冊くらい買ってるけど)。うーむ、「Oliveって一体なんだったの?なんてことを色々考えてみたりするオリーブ少女に憧れた元少年」の略でどうでしょう。あとプリンセスチュチュは未見なのでどうにかして観ます。
それはともかく、同じページで「男の子は、新井素子作品のどこにどう衝撃をうけたんですか?」という興味深い質問があったので自分の場合で考えてみます。(いずれきっちりと考えてみたいのだけど)
読んだのが中1だったのだけど、それまで小説は北杜夫星新一くらいしか読んでない(漫画もほとんど読んでなかった)身にとってはまさしく東浩紀氏の言ってるような「ポストモダン」で、だから「『……絶句』はノンフィクションで世界は新井素子化してるのだ」とか冗談でなく言っていた中高時代なのだけど(あまり書くと引かれるのでこの辺りでやめます)、つまりは自己同一化(「感染」でもいいけど)してたんじゃなかろうか。それは「俵万智のポジション」(=アイドル?)というよりは、新井素子自体が女性性の原型としてミトコンドリアみたいに潜り込んで、あるいはそれがそのまま自分の女性的なジェンダーの基盤となったのかも。(だから「ズレが生じている」というのも納得で、『……絶句』あたりまでの文体は読めるけど『くますけと一緒に』とかからは違和感がある。それはたぶん僕の中の新井素子と今の文体との違和感なのでしょう)
俵万智のポジション」にもしなるとすれば、新井素子がそれなりのメディア展開(アイドル展開?)をしていた頃に最低でも思春期を迎えていないとダメで、つまりは交換日記やってた頃に中学生だとすれば、今の30歳あたりまでが下限?(かなりてきとー)そう考えると自分の会った人で新井素子に屈折した思いのある人ってそのくらいの年代で、自分が布教しまくってた中高時代はともかく、大学入ると同期の男性で新井素子とか言ってる人はいなかったよーな。どうなんでしょう?(他の人がどう読んでたかというのは興味があります。文庫『グリーン・レクイエム』のあとがきの人が、新井素子読むと文体が新井素子になるって言ってるけど、そういう「感染」タイプの人もきっといたはず)