第2期ガールポップ

邦楽の「ガールポップ」ブームが(自然発生か仕掛けなのか分からないけど)始まったのはやっぱりソニー・マガジンズ刊の「GiRLPOP」誌が創刊された92年後半からで、谷村有美森高千里永井真理子渡瀬マキあたりの第1期に続いて出てきたのは久宝留理子橘いずみ加藤いづみ佐藤聖子近藤名奈あたりの第2期になる。
で、ガールポップ(特に第2期)って何だったんだろう? ってつらつらと考えてみたりするんだけど、93年〜95年あたりの「GiRLPOP」誌って結構扱ってるアーティストがばらばらで、vol.5にはデビュー前のYUKIJUDY AND MARY)が出てたりするし(貴重!)、CHARAからさねよしいさ子國府田マリ子まで幅広い。もちろん今でもそれなりの幅広さがあるのだろうけど、94年頃にはジュディマリ遊佐未森ガールポップって言っちゃえたような状況がその数年後には無くなってる(同期して、第2期ガールポップのアーティストが活動を少なくしてゆく)のは、やはりその当時に(第2期に)それだけの求心力があったからだと思う。で、個人的には96年の5/13を「ガールポップの終焉」の日として置いてしまおう。
第2期ガールポップをひとことで定義しちゃうと、「音楽的成長を人間的成長から語られてしまうジャンル」あたりでどうでしょう。かつてアイドルポップスで音楽的成長が取り沙汰されなかったのとは違って、あくまでアーティストであるガールポップでは音楽的成長を語らなくてはいけないのだけど、しばしばそれは詞や曲調から見られる人間的成長と意識的に混同される。だから第2期ガールポップのデビュー曲はみんなことごとく駄作で(近藤名奈以外?)、3枚目あたりで「転換期」が与えられる。いちばん顕著なのは近藤名奈で、シングルのタイトルと雑誌のコメントを見るとまるで「女の子成長日記」を付けているようで(アイドルグラビアにも似てるけど、あくまで「音楽的成長」として語っている所が違う)、その「混同」がすごく分かりやすく見える。(太字は筆者)

  • 地球を蹴ってさかあがりして」(2ndシングル)
  • サラダ通りで会いましょう」(3rdシングル)、「スポーツって、いちばん近藤名奈的なものかもしれませんね。」(「GiRLPOP」vol.5)
  • 「いつも元気な明るい笑顔を見せてくれる近藤名奈ちゃん。(中略)今回はふだんは見られない彼女のセンシティブな一面をのぞいてみた。」(vol.6)
  • 「(春色のカーブ(5thシングル)の)イメージもあって、序々に女の子らしい面もアピールしてみたいなと思って。」「名奈がデビューしたときの、ジーパンとショート・ヘアの印象は強烈だった。(中略)でもその印象の強烈さゆえ、私たちのほうで勝手に“近藤名奈”のイメージを決めつけていた部分がきっとあったんだろう。でも、だとしたらちょっと失礼な話だし、ひとつの印象だけにしばられていたら、名奈のさらに広がる他の顔を見つけ損なってしまいそうだ。」(vol.7)
  • 「ニュー・シングル「少年のままでいい」は“母性愛”がテーマだ。初めてケンカに負けた相手に、“母性”のめざめを感じた少女の頃。そして、それが初恋だったのかも、と振り返る。ナチュラルに、少しずつ大人の顔をかい間見せるようになった近藤名奈が、初めて“恋愛”について語ってくれた。」(vol.9)
  • 「シングル「あなたは知らない」をリリースする名奈チャン。今回は海辺でのロケ。より女っぽくちょっとハードに迫ります。」(vol.10)
  • 「(ニューアルバムについて)簡単に言ってしまえば、より女らしくなり、内面に深く迫った世界へと向かっている。」「名奈の書く詞がとても“せつなく”“いじらしく”“かわいらしい”ことには、正直言って少し驚いた。」「ボーカリストは成長しつづけている。」(vol.11)
  • 「このところ充実の気配を見せ始めた“近藤名奈のラブ・ソング”も、私生活を反映させてさらなる展開を見せるのか?」(vol.14)
  • 「(シングル「Kissだけじゃうまくいかない」について)Kissだけじゃもういや、早くエッチしてほしいの(ごくストレートに言ってしまえば、ね)という女心。」「大胆かつストレートな自作の詞からは、何か吹っ切れた、気持ちいいほどの自信が伝わってくる。」(vol.15)
  • 「素直な自分の姿をさらけ出していくことに目覚めた近藤名奈の歌は、よりリアルにしっかりと響き始めた。」「さりげなく、「こういうふうになれたのは(中略)新しい恋を見つけたせいもあるかもしれません」」(vol.16)

96年の5/13が何の日かというと、岡本真夜「tomorrow」の発売日。第2期ガールポップの「成長」とは違って、岡本真夜はデビュー曲から完成されていて、さらにはアルバムで佐藤聖子や加藤いづみ久宝留理子調の曲をものしてゆく。つまり、彼女たちの唯一であるはずの「人間的成長」で手に入れた、唯一であるはずの「音楽的成長」の結果をやすやすとコピーしてしまう。だから岡本の登場で第2期ガールポップの構造は崩壊して、求心力を失ってしまったんじゃないかっていうのがひとつの仮説。それを「第3期」としてしまってもいいのだけど、それまで第1期・第2期と進化の過程にあったガールポップ全体の歴史が、岡本の登場によって再編成されて、あたかも岡本真夜の下に久宝や加藤や近藤やその他のアーティストの活動があるかのように位置付けられてしまったのも確か。*1
例えば椎名林檎あたりの登場ってそういう、ガールポップ市場が未熟のアーティストを出す手法から成長しきったアーティストを出す手法に切り替えた後のものなのだろうけど、そうすると今度は各アーティストに何らかの過剰さ・エキセントリックさを初めから付与しないといけなくなってくる。そういう構造を自己パロディ的に露わにして見せたのは、椎名林檎の半年前(97年10月)にナース服着てNHKポップジャムに出てしまった堂埜陽子で、声優っぽい声とコスプレを表面的な記号とした彼女のデビューシングル「再生の秘薬」は、エキセントリックから音楽的未熟さへ、終焉したはずのガールポップから第2期ガールポップへ、デジタルからシンガーソングライター時代へと進化の流れを逆行するような様相を見せる。それはひとえに彼女がガールポップと、それを含む女声ミュージックという流れ(をめぐる思惑たち)を確信犯的に再利用したからで、詞にある「終わりの意味は壊して」「胎児になる呼吸をして恋の進化をもう一度」なんて言葉も、求心力を失った第2期ガールポップをもう一度(今度はもっと確信犯的に)再生してしまおう、なんて言っているよう。そんなこと言いつつ堂埜陽子はたった2枚のシングルを出して行方をくらましてしまうんだけど。

*1:第2期ガールポップと同じような構造はその後女性声優の分野でも見られると思うのだけど、ちょっとその辺りは詳しくないのでどなたか解説お願いします。