おおばやしみゆき続き

今さらだけど、プイ君id::pui_asn:20070324の「キスからはじまる」評
「男女の考えがすごくすれ違ってるはずなんだけど、それでもパートナーシップがうまくいっていると読者に納得させられるセンス」
ってのはあまりに的確すぎるとおもう。


まあまたぞろ羽山理子の話に持ってゆきたいわけですが
お互いにお互いのことを深く理解している、っていう旧来の少女漫画的恋愛観へのアンチテーゼが「パラダイス・リサーチ」や「モダン・ダイナマイト」で、最後の最後まで男の子の理想と女の子のふるまいがずれてしまっているのに、それでもなぜだか関係が始まってしまう、それは多くのラブストーリィがはらむ「完璧さの希求」(あるいはさらには「一意であること」の希求かもしれない)に対している(もちろんそれが、「理想の恋愛」に対していた「現実の恋愛」という概念ともまた全く違う層にいるのは言うまでもない)。
初めから完璧で一意な相手が世界のどこかに存在する、という段階から、一意な存在はたとえ理解のずれがあっても必ず修復できる、という段階。さらには、どんなに初めがずれた関係でも、それをすり合わせる意志さえあれば(最終的にずれたままでも)それはひとつの関係である、というのが羽山理子の描いた段階であるなら、「キスからはじまる」はさらにそれを超えて、そもそもすれ違いとラブストーリィには関連性はないのではないか?と問いかける。例えば入江紀子鴨居まさね他のヤングレディース作家は「いくつものずれがあってもトータルでラブストーリィであるならばそれは幸せな関係」という描き方をするが、おおばやしはそれとも違う気がする。はじめから、ラブストーリィを成長物語・必然の積み重ねの物語ではなく、ただ一瞬ごとに偶然に関係が存在すれば、その一瞬を連ねることがそのままラブストーリィになる、という考え方をしているように思える。前者には個々の瑕疵を修復する必要が生じるが、後者にはその必要性が無い。(そのあたりを、僕らは少女漫画的「すっとこどっこい」と呼ぶのかも)そしてそれは、ラブストーリィを「恋愛の物語」から「関係の物語」に進化させるための新しい手法なのかもしれない。

キスからはじまる (フラワーコミックス)

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