最前であること/最前であること

(合コンの経験値が低いので見当違いなことを言ってるかもだけど、)合コンでのいちばんの必勝法は単純に、おめあてのあの人のすぐ目の前に座ることだと思っている。視線と視線、言葉とことばが交差しうる距離にあること。あの人の「最前」の位置をキープし続けること。
 たとえば「Web合コン」みたいな形のツールがもう少しすると作られるかもしれないし、あるいは知らないだけですでに広まっているのかもしれない。ネットゲームのような形式で、自分を模した3Dのアバターをその「席」に座らせ、吹き出し型のチャットが画面を埋める。「Web合コン」に、現実のそれと大きく異なるシステムが導入されるとしたらそれはおそらく、その「場」における位置(視界)を参加者それぞれが自由に選択できる点となるはず。場の「俯瞰図」が各クライアントで必ずしも一致する必要はないわけだから(右隣と左隣の人が○○!なんてゲームには不便かもだけど!)、いつでも目の前にあの人を映すことができるし、あるいは総並べ替えで苦手な彼や邪魔な彼女を端っこの席に追いやってもいい。
 いつでも「最前」をキープできるいくつかのコミュニケーションツールの存在が、ある種のラブストーリィ、例えば少女漫画での描かれ方を変質させてゆく可能性はある。貸出カードの履歴を追わなくてもあの人は読書リストをWebにいつも書いてくれてるし、友達の友達をたどって好きなタイプを聞き出さなくても、参加コミュニティにはいくつもグラビアアイドルの(あるいは二次元キャラの)名前がある(街中を撮影したあの車が走った時間帯は残念ながら早朝なので、夜中に窓灯りを見上げることはモニタの上ではできないのだけど)。こっそりと縦笛の先を舐めたり、第二ボタンを手に入れたり、そういったことも徐々にハードルが下がってくるのではないか。「最前であること」「最前になること」の、特にラブストーリィにおける描写の推移は、今後の数年で最も注目したいことのひとつだと思う。



 空想の「Web合コン」で面白いのはもちろん、それぞれの「視界」が必ずしも一致しないことだ。逆に言うと「現実の合コン」では、以下のことが必ず担保される。
1)わたしの最前があなたであるとき、あなたの最前がわたしであること。(必要十分であること)
2)あなたの最前がわたしであるとき、わたし以外はあなたの最前ではないこと。(排他であること)
3)わたしの最前があなたであるとき、あなた以外はわたしの最前ではないこと。(一意であること)

 書いてみて少し怖くなってしまったのだけど、これらすべてが不確実な状況に、わたしたちのコミュニケーションは進入しつつある。3番は、「わたしが二心ではないこと」は、当然に悪魔の証明と同義だ。「ほんとうの気持ち」を描くこと、それが「ほんとうの気持ち」だと説得すること、多くのラブストーリィでそこに最もことばが割かれてきたのがこれまでだったけれども、その「ほんとう」は実際には「最前」の公理に裏打ちされていたはず。わたしの「視界」をあなたに伝えること、それは今までに想像できないくらいに困難になる。
 第二ボタンをもらうこと、縦笛の先を舐めることはあるいはずっと簡単になる、だけれどいくつの学生服といくつの第二ボタンがあるのか、あるいは縦笛のほかにサックスを練習しているのか、そういった拭えない可能性の存在を新しいツールは必ず導出する。交換日記のノートはただ1つだけど(そんなはずは決してないのに、まるでそうであるように錯覚してしまう)、新しい日記は同時にいくつもの「最前」に配信され、そしてそれぞれごとに手渡されるページは違うかもしれない。ただ1つの席を取ることがそのまま時間と存在の独占だった、そんなシステムはもはや無くって、簡単にあの子の席に座ることができて、でもあの子の席を外させることは簡単にできない。
 そうして、いつでも「あなたが最前であること」を得られる(そして、そうでないことを選べない)状況で、最も切実に描かれ、語りを欲望されるのは、あなたの「視界」において「わたしが最前である/ないこと」だろう。かつての片思いが空間的距離、たとえば教室の窓から遠くのグラウンドを眺めるといった俯瞰で描かれていたことに対して、距離すら自由に取ることができない、あらゆるあなたが近接してけれども交差しない関係性、そういった描写が現れる予感はすでに(いくつかのラブストーリィで、少女漫画で)確かにある。かつて描かれたあの距離の間に淡く広がっていた切実さも、その距離を縮められる、「濃縮」されることで、ほんの小さな衝撃で脆く崩れてしまうようなレベルになる。その上でなお、あなたの「視界」を知ろうとし、その残酷さを受けもつ強度、それがわたしたちとわたしたちのラブストーリィに、今いちばんに求められていることなのは間違いない。