メトロセクシャル

http://www.isk.ne.jp/worldrep/newyork04.htmid:Tigerlily:20031106#p4さんより)
「ストレートで、都会に住み(殆どが高収入)、フェミニンな特徴をライフスタイルに取り入れている男性達」=「メトロセクシャル」な人々に関する興味深い記事。
上とは微妙に関係ないっぽいけど、最近考えていること。
かつて(例えば5年前)「オリーブ少年」とカテゴライズされた時の違和感をいまだに記憶していて、Olive誌に(あまり親しくない)顔見知りが載った際にもかなりの反発を覚えたはず。それはつまりは、ぼくはオリーブ少年じゃなくてオリーブ少女になりたかったからではないのかと思う。
幸福なことに大塚英志なんて1文字たりとも読んでいなかったぼくは、少女と〈少女〉の違いなんかに思い悩むことも無かったのだけれど、そのかわりにもっと根本的な問いを残す。そもそもオンナノコになりたいこととオンナノコに出会いたいことは裏返しで、だから滝本竜彦は(ついでに舞城王太郎は)ほんとうは戦う少女の側になりたかったんじゃないの?と思うのだけれどそれは置いておくとして、フェミニンであることは手段なのか目的なのか、という疑念は常にぼくやぼく以外の誰かの背中に(ちょうど、id:sayuk:20030903#p2でいう「父性の不確実性コンプレックス」のように)貼り付いている。
ぼくが5年前に作っていたギターポップ系のファンジンはデザインも内容も過剰なまでに(Olive的な)「フェミニン」だったはずなのに、届いたファンレターにすくんでしまったのはひとえにぼくが男子校育ちで、ラメペンの使い方もシールのちりばめ方も知らなかったから(ていうかそもそもレター文化なんかに習熟してない!)に他ならない。フェミニンなものへの返答としての彼女たちの(ちょうど、彼女たち自身のコミュニティで交換されているものと同等の強度を持った)手紙はいたたまれない感覚として今でもぼくにあるのだけど、同じようなある種の「おびえ」は、id:sayuk:20031107#p1でいみじくもこの日記とあのファンジンの類似性を挙げた以上、今でも自分自身の中にあるはず。close/cross; confusion is sexの「おとなりページ」として表示されるページのトップにあるのはBeltorchiccaさんで、日記をはじめる前までテキストサイトなんてひとつも読んでいなかったぼくはようやくバックナンバーを読みはじめた所なのだけれど、面白いと思いつつ(正直に言うと)どこかであのラメペンとシールの(あるいはその成長した先の)世界を思い出してしまう。それは比喩するなら、男の子とサッカーが出来なくなった十数歳の少女のような気持ちで、初潮がそういう乖離を生み出すように、ぼくやぼくではない誰かの側には「初潮の欠如」のような意識が存在するのではないか。
あるいはそれは、結局またid:sayuk:20030927#p1で言うような距離感の問題で、ぼくの周りのオトコノコたちは、たとえばエスカレーター系やロボショップ・マニアがアイドルポップス的に消費されていたあの状況にも上手く順応していたのかもしれない。そもそも、ギターポップがフェミニンでラウドロックがマッチョだというような認識にも問題はあるのだけど、一見「性差のない」と見えた世界のそういういびつさをぼくは過信してしまって、ギターポップやOlive的なもので彩られた「フェミニン」とほんもののオンナノコとの埋められない距離に気付いた時に立ちすくんでしまったのかも。id:sayuk:20031017で言うような「性差のない」と「同性のような」を勘違いしていたぼくにとって、冬野さほアランジアロンゾが好きだったりギンガムチェックなデザインにときめいたり、そういうことはオンナノコであることと全くもって関係ないということをあのいくつかの手紙は残酷に突きつけていて、置き去りにされた感覚は今もってあるのでしょう。
上の記事(メトロセクシャル)に対して思うことはつまりは5年前の「オリーブ少年」に対して思ったことと同じで、フェミニンであることと男性であることとのずれにどのくらい意識的であるか(あるいは、意識しなくてもよい立ち位置にあるのか)がぼくの側にはいつも疑問としてある。もちろんそんなことを意識しなくても「フェミニン」は消費できるのだけど、結局そこを分離できないまま自分は来てしまっていて、id:sayuk:20031106で言うようなコスメとかBLに興味が移ってるのも、フェミニンを押し進めてその向こう側にゆけるのだろうかという無謀な企図なのかも。

横川寿美子『初潮という切札』/交野佳奈

で、(また話はずれてゆきますが)初潮とは何なのかということを考え始めていて、たとえば横川寿美子『初潮という切札』(ISBN:479660085X) は児童文学での初潮の描かれ方を論じているのだけれど、ちょっと引用。

初潮であれ月経であれ、これらの作品に描かれているのは、女たちがそれぞれ同じメカニズムを体内に抱えていることを確認しあい、相槌を打ち合うことで、互いに同化していく世界である。そして、何らの説明もなく、すでに自明のこととしてあるそうした初潮や月経の意味に突如遭遇させられることになる読者もまた、同じ相槌を求められている。初潮の場合は、より大きな衝撃力をもって描かれるために、相槌を求める強制力もより大きいと言えるだろう。(中略)
それでは、なぜ少女がこうもやすやすとその連帯に取り込まれてしまうのかと言えば、初潮を経験する少女というものが徹底的な受け身の状態に身をさらされているからである。しかも、それは彼女が今後何十年間にもわたって、月ごとに同じ受け身の状態を我が身に引き受けざるをえないことが決定的になった瞬間でもある。その体の受動性が精神の受動性をも誘発するのである。だが、むろんこれは錯覚である。体の受動性はいたしかたないとして、精神はどのようにも自由であってよい。

これを読んで思い出したのは(同人誌だけど)交野佳奈(エレホン)の「おしまいの日」(『涙のメカニズム』所収)という作品。登校拒否になった美由紀は親戚の死に触れて「何が仕方なくて何がどうにかなるのか 私にも何かできるのか」と考え始める。さまざまな本を読んで、学校に行ってない自分にも「仕方ないことも仕方なくないようにできるようになるかもしれない」「今のあたしにできる事をするの」と思い始めた彼女にある日初潮が訪れる。怖い、気持ち悪いと泣く彼女に母親は「美由紀が嫌でも美由紀の体は勝手に大きくなっていくの」「仕方ないのよ」といい、彼女は「あたしあしたから学校行く」と答える。
交野佳奈の作品はこういう、意識を身体的なレベルに引き戻すというものが多くて、(同じ同人誌でも)水人蔦楽id:sayuk:20030924#p2、id:sayuk:20031003#p1)が常に社会的な身体(ジェンダー)を指向していたのとは対照的なのだけど、フェミニズム的な意識がある段階へと進化する際に再度個人的な身体の問題(例えば生理や妊娠といった)に立ち戻らなくてはいけない、ということを描いているのかもしれない。それはフェミニズムが机上では達成され、学問や意識のレベルでは浸透しながら、社会(企業社会)ではいまだに進歩していないというポスト・フェミニズム的な状況とも重なるのだけど。
斎藤環『社会的ひきこもり』(ISBN:4569603785) をちょうど読んでいて、最終章で書いてある「想像的去勢」(もともと精神医学の言葉なのでしょうが)=あきらめを引き受けること、が横川や交野の書く「初潮」と重なるのかもと思ったのだけど、上で滝本竜彦とか連想したのも「想像的去勢の否認」が思春期病理としての社会的ひきこもりに影響するという斎藤の言説からだったり。舞城の「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」が、『世界は密室でできている。』を読んでぼくが得た「もう1つのペニス/ヴァギナの記憶」(id:sayuk:20030906#p2)をなぞっていたのも、獲得できなかった初潮という徴、あるいは否認した去勢から逆行して不在した性器を手に入れたのではないか(舞城が執拗に大島弓子的なプロットをなぞり直すのも、得られなかった少女性を想ってのことなのではないか)みたいなことをぐるぐると考えていて、そのうちまた読み返して書くことにします。

オトコノコとコスメ

id:moyu0:20031109さんより。化粧をしないオトコノコのコスメ意識というのも知りたいです(自分の感覚はすでに当てにならないものと思ってしまっているので)。化粧品の各アイテムの機能とかどのくらい知ってるのか? ブランドとかへの認識は? もっとも、口紅の種類とか言い当てられるようになっちゃったらそれはそれでまずい気もする。