横川寿美子『初潮という切札』/交野佳奈

で、(また話はずれてゆきますが)初潮とは何なのかということを考え始めていて、たとえば横川寿美子『初潮という切札』(ISBN:479660085X) は児童文学での初潮の描かれ方を論じているのだけれど、ちょっと引用。

初潮であれ月経であれ、これらの作品に描かれているのは、女たちがそれぞれ同じメカニズムを体内に抱えていることを確認しあい、相槌を打ち合うことで、互いに同化していく世界である。そして、何らの説明もなく、すでに自明のこととしてあるそうした初潮や月経の意味に突如遭遇させられることになる読者もまた、同じ相槌を求められている。初潮の場合は、より大きな衝撃力をもって描かれるために、相槌を求める強制力もより大きいと言えるだろう。(中略)
それでは、なぜ少女がこうもやすやすとその連帯に取り込まれてしまうのかと言えば、初潮を経験する少女というものが徹底的な受け身の状態に身をさらされているからである。しかも、それは彼女が今後何十年間にもわたって、月ごとに同じ受け身の状態を我が身に引き受けざるをえないことが決定的になった瞬間でもある。その体の受動性が精神の受動性をも誘発するのである。だが、むろんこれは錯覚である。体の受動性はいたしかたないとして、精神はどのようにも自由であってよい。

これを読んで思い出したのは(同人誌だけど)交野佳奈(エレホン)の「おしまいの日」(『涙のメカニズム』所収)という作品。登校拒否になった美由紀は親戚の死に触れて「何が仕方なくて何がどうにかなるのか 私にも何かできるのか」と考え始める。さまざまな本を読んで、学校に行ってない自分にも「仕方ないことも仕方なくないようにできるようになるかもしれない」「今のあたしにできる事をするの」と思い始めた彼女にある日初潮が訪れる。怖い、気持ち悪いと泣く彼女に母親は「美由紀が嫌でも美由紀の体は勝手に大きくなっていくの」「仕方ないのよ」といい、彼女は「あたしあしたから学校行く」と答える。
交野佳奈の作品はこういう、意識を身体的なレベルに引き戻すというものが多くて、(同じ同人誌でも)水人蔦楽id:sayuk:20030924#p2、id:sayuk:20031003#p1)が常に社会的な身体(ジェンダー)を指向していたのとは対照的なのだけど、フェミニズム的な意識がある段階へと進化する際に再度個人的な身体の問題(例えば生理や妊娠といった)に立ち戻らなくてはいけない、ということを描いているのかもしれない。それはフェミニズムが机上では達成され、学問や意識のレベルでは浸透しながら、社会(企業社会)ではいまだに進歩していないというポスト・フェミニズム的な状況とも重なるのだけど。
斎藤環『社会的ひきこもり』(ISBN:4569603785) をちょうど読んでいて、最終章で書いてある「想像的去勢」(もともと精神医学の言葉なのでしょうが)=あきらめを引き受けること、が横川や交野の書く「初潮」と重なるのかもと思ったのだけど、上で滝本竜彦とか連想したのも「想像的去勢の否認」が思春期病理としての社会的ひきこもりに影響するという斎藤の言説からだったり。舞城の「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」が、『世界は密室でできている。』を読んでぼくが得た「もう1つのペニス/ヴァギナの記憶」(id:sayuk:20030906#p2)をなぞっていたのも、獲得できなかった初潮という徴、あるいは否認した去勢から逆行して不在した性器を手に入れたのではないか(舞城が執拗に大島弓子的なプロットをなぞり直すのも、得られなかった少女性を想ってのことなのではないか)みたいなことをぐるぐると考えていて、そのうちまた読み返して書くことにします。