「JIVE MY REVOLVER」(TOKYO No.1 SOUL SET)/「砂の本」ボルヘス

id:sayuk:20030830にある、TOKYO No.1 SOUL SET『JIVE MY REVOLVER』の詞はボルヘス『砂の本』の文章をコラージュしている」という話題に関するデータ。
以下に本の方の引用を集英社文庫「砂の本」(篠田一士訳、1995/11/25)ISBN:4087602400。ただし、「JIVE MY REVOLVER」の完成時期(アルバム「TRIPLE BARREL」が1995/4/21)なので、実際に参照したのは単行本(1980もしくは1990集英社刊)の方と思われます。(追記:「JIVE MY REVOLVER」のプロトタイプが「黄昏'95〜」(1995/2/22)収録の「ボツ」だったことと、両曲の歌詞の変遷を見ると、完成時期はさらに限定されるかもしれません)
また歌詞の方の引用は行いません。歌詞カードもしくは記憶を参照し突き合わせて下さい。

  • 「あなたの長ったらしいカタログも、まったく、なんの役にもたちゃしない。」(p11)
  • 「わたしたちは夢見ることをやめられるかもしれないし、やめないかもしれない。それはそれとして、ともかく、わたしどもが守るべき明らかな義務は、その夢を受け入れることです。」(p11)
  • 「わたしたちは、ときとして、自分にふさわしくないことを口にするものである。」(p24)
  • 「もし人が何かを持つことができ、また何かが失われ得るものならば」(p24)
  • 「自分と、自分のくせとに折り合ってゆくので精一杯だ」(p30)
  • 「本質的な新しさなどなにひとつなく、小心なバリエーションにすぎない」(p31)
  • 「「わたしのおかしな過去には」とわたしは言った。」(p104)
  • 「周到な曖昧さで練り上げた大統領布告(中略)こういうものは、すべて、忘れるために読まれるのです。」(p105)
  • 「『ここ』と『いま』とから逃れることはできませんからね。」(p107)

個人的にはこの詞は、その後現れた「渋谷系文学」という言葉へのアンチテーゼではないかと思っています。同じく「砂の本」にあった文章、「もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。」(p107)。十分に意図された詞はしかしそのようには取られず(例えばその後の「文藝」でのインタビューでも触れられていた記憶は無いです)、ちょうどこの詞が「文学的」と呼ばれてしまうようなやり方で「渋谷」に「文学」が発生するという言説はなされたのではないかと。