「ハネムーンサラダ」ニ宮ひかる(全5巻)

id:sayuk:20030827#p3あたり読み返していて思い出したのだけど、二宮ひかるハネムーンサラダ」のラストの、結婚式すっぽかされた相手と、その場の勢いで結婚した女性との3人とで結局同棲(多分)するってのはid:sayuk:20030825#p2やid:sayuk:20030827#p3で言う「三位一体構造」をかなり壊している気が。(めんどいので以下ネタバレ)結婚するという「夏川さんの気持ちがほんとうと感じるからこそ」、その契約を壊すことでさらに「ほんとうの事を知りたいと… 一点の曇りもない ほんとうの物だけが欲しいと……」と思いさらに実行してしまう一花(ヒロイン1)、それをみてじゃあ「もったいないから」「花嫁さん代わりにやって」結婚式しちゃおうとする遙子(ヒロイン2)、その選択はストーリー的にも「これしかない」ってくらいの美しさ。
そもそも「ハネムーンサラダ」で「結婚」はどういう理由付けをされたのかというと、やっぱり5巻にあるけど「━━一花は… たぶんすぐに諦める いなくなる 『言葉』にするのが下手だから 意志を伝えあうのが難しい …だから結婚する 傍にいる」「遙子とは どんなにケンカしても どんなに遠くなっても けっして縁は切れない 離れられない ━━だから結婚はしない」つまりはid:sayuk:20030825#p1で言う「相対的距離」の遠い/近い2人のヒロインなのだけれど、そこで相対的距離の遠い相手に対し結婚の契約性を用いて「絶対的距離」での接近を図るという行為なのだ。それに対して一花(というかヒロインたち)が選んだのは「何かのご褒美みたいに幸せになるなんて 見返りを期待してるみたいで なんだか気持ち悪い」とそこから逃走することで、またハッピーエンドの執着点である結婚式を「混乱の極みよ 乱チキ騒ぎよ」と言い切ってしまうこと。
ステディ(一夫一妻)であることを恋愛の至上とするのは「特別な存在としての自分」という意識の裏返しなのだろうけど、ちょうど「雲の上のキスケさん」(鴨居まさね)が(id:sayuk:20030825#p1でいう)「手繋ぐよりキスの方が、ヤらないよりヤる方が近い」=「性愛をABCのようなステップアップの過程に近似化する」ことに抗し「性愛表現の稠密化」(およびそれによる性愛関係の進展の相対化)を行ったように(これも後で書かなきゃ)、「ハネムーンサラダ」のラストがああだったのは、結婚を代表とする「永遠のステディ関係」を恋愛/コミュニケーション関係の到達点とするような思想に抗することで「ロマンチックラブイデオロギー」を解体しようとしたのではないか。(実をいうと「Kanon」の舞・佐祐理エンドにも同じものを感じてしまうのだけれど)
時々思うのは「ネット恋愛」がなぜ「現実の恋愛」の劣化コピーもしくは通過点とされてしまうことの違和感で、ネット上のコミュニケーションがオフのそれの代替物ではなくそれ自体独立した「関係」として認識されるような相対化が「ハネムーンサラダ」のラストと同じように、フェミニズム的な新しい恋愛/コミュニケーションの構築を齎すのかも。