「雲の上のキスケさん」鴨居まさね/特異点化しない性愛表現

ファウストの話が続いたので元のジェンダー話に戻ります。
id:sayuk:20030904#p2の続きで「雲の上のキスケさん」の性愛表現を調べようと思ったけどちょっと多い。眉子(ヒロイン)が手を弄られる&視られるのが弱くて特に左手の薬指は「直結して」いて、喫茶店で手指だけで卑猥なことやってたりとか、やはり喫茶店で両手繋いで「眼を逸らした方が負け」ゲームを始めたらキスケさん(男の方)が脈測り出したりとかね。
少なくない少女漫画のラストが1コマのファーストキスであるように、少なくないエロゲーのラストは短い初体験シーンで、エロゲーの場合一見それは性愛表現を薄くする方向に見えるけど、実際にはそれは表現を薄くするほどラブストーリーの中でより大きな特異点となり強い「契約性」を帯びるのではないか。ちょうどid:sayuk:20030825#p2で言う「りぼん少女漫画のイデオロギー」と同じで、「一途な(選択肢上での)思いがかなう」代わりにプレイヤーはヒロインによって性愛−結婚に至る「三位一体構造」を強制されてしまうのかも。では(フェミニズム的な解答として)「プレイヤーの価値はヒロインに選ばれることには無い」とする?(まさにそれに殉じてサブキャラ萌えが増えるのか?)
性愛のABC構造(目盛化、もしくは階段化)の解体は非常に難しくて、少女漫画の場合例えばいくえみ綾(以降、片岡吉乃から羽海野チカに繋がる)あたりは既にあったモノローグと情景描写の並列を(ラブストーリーの)ストーリーテリングに複合させることで、恋愛の進展を階段状でない連続的なものとして描こうとした。あるいは筑波さくら緑川ゆきあたりの白泉社系の作家は、単純な手や肌を触れ合うことにストーリー上の意味を持たせることで、性愛表現が例えば「手をつなぐ」などの行為の連続的な延長線上にあること(唇と唇、粘膜と粘膜)を示そうとした。「雲の上のキスケさん」の場合多様な「接触」を均等に描き日常に遍在させることで、成長に擬似した性愛の各段階がその「成長の達成」の後では等価であり、そのランク分けが無意味なこととなっているのを見せる(ありていに言えば「セックスしちゃったらもうキスしなくていい、って訳じゃない」みたいな意味にもなるけど、でもそんなのすら今まで誰が教えただろうか?)。
(すでに古いかもだけど)「リトルモニカ物語」や「秋桜の空に」「結い橋」「Princess Holiday」あたりの「純愛物エロゲー」での性愛表現の過剰さは(まだ未熟ながら)ストーリー上での性愛過程の特異点化を解消するものかもしれない。ただ、いくつかの少女漫画ではストーリー上での性愛表現の配置はさらに進展して、エロゲーというよりAV的な配置となる。その辺はあとで。