「純粋!デート倶楽部」石田敦子(ISBN:4785921277、ISBN:478592229X)

例えばある割合のソープ嬢が「フェラはいいけどキスはダメ」ってなってるのは、売買春が恋愛と性愛の分離のように見せかけて実は性愛(身体的コミュニケーション)とセックスの分離でしかないことを表していて、だからやっぱり売春産業が恋愛至上主義を駆逐するって議論は素直に理解できなかったり。「キスは恋愛?性愛?」とかはてなで質問するよりは、(すべての強姦がセックスであるように)すべての(例えば電話とか、視線を交わすとか、フレグランスとか)communication=confusion is sexとしたほうが自分にはずっと分かりやすい。
さてそこで『純粋!デート倶楽部』は、「本当の恋愛関係」と「身体関係」を切り捨てることで「トキメキ」のみを(サービス内容として)抽出するというさらなる極左思想で、出て来る部員が全員(基本的に)女性なのを見ると「Y's bis LIMIにもアランジ・アロンゾにもアナスイにもトキメけない(トキメク対象のない)オトコノコのため?*1」とかいう視点は簡単に出てくるのだけどまあそれはどーでもよくて。片思い系りぼん(りぼんオリジナル?)少女漫画や、オタク業界でいう「萌えシチュ」に比されるかもしれない、この作品で描かれるサービスとしての「トキメキ」から逆算される「トキメキ至上主義」が恋愛至上主義を駆逐できるのかどうか。
6話「高まるる・る・る」で玉青が言う言葉「恋愛で一番好きなのがSEXするまでなんだよね」「やれそーでやれないときが一番おいしい」や、11話「新しい花・散った花」で描かれるトキメキ(もしくは「感情全般」。ちょうどあなたの歯痛とわたしの歯痛が「2つの歯痛」でないように)の交換不可能性をみると、『純粋!デート倶楽部』のそれはある1点でもある方向でもない、ぐるぐるとした力場(僕が「カワイイ」という言葉に持つイメージもその通りなのだけど)のような「動的であること」そのものなのかもしれない。視線の交差がつまりは頻発する「瞬間」であり、フレグランスがつまりは拡散し近く消滅する空間との接触の可能性であるように、communication/confusionは本来そういうものかもしれなくて、通過儀礼化した性愛の各段階がそれを展翅して標本箱に固定する行為であるのと同じような認識で、恋愛至上主義もそれに抗する議論も(その他のラブストーリーに関する多くのジェンダー論的言説も)働いているのだけれど、動的な瞬間の奇跡的な連続*2として恋愛関係(コミュニケーション)を認識することが『純粋!デート倶楽部』でいう「トキメキ」(そしてそれが連続体であるために、作品内では切り取った一片である「トキメキ」を恋愛と等価なサービスとして提供できる。例えばオトコノコ向けので流通する「萌えシチュ」もこれと同じ構造かもしれなくて面白い)が提示するものなのかも。*3
(「ゆびさき〜」の前に「純粋〜」の谷崎真白の女装を、と思ったら関係ない文になってしまいました)

*1:この3つの比較も面白くて、雑貨やキャラクターは身体の外で、服飾は身体の輪郭で、コスメ(特に基礎)は身体の中で(「コスメの魔法」に出てくる、「肌に浸透するようイメージして念じる」みたいなのってオトコノコから見るとほとんどオカルトなのだろうけど)インタラクティブかつ精神的な関係を築けるのだ。

*2:同じように感じたのがささだあすか「パジャマでごろん」(全3巻)で、この漫画はりぼん少女漫画的な片思い→両思いで終わる、性愛や結婚を超えられない(とされる)恋愛観を、超えられないという諦観や隠蔽による無理な直結でなく、またいくつかのレディースコミックに見られる手の平を返したような「性愛以降の現実」の押し付けでもなく、「やってみたら出来ちゃった」的な感覚でそのままに性愛と結婚の先へ押し進めてしまっている奇跡的な作品。その奇跡はつまりは前述した「動的な瞬間の奇跡的な連続」(別の言い方をするなら「飛び続けること」)として関係を描くことであって、タイトルや作品の表面的な印象から受ける「安定(ほのぼの)」とそれは決してイコールではない。さらには「Papa told me」や「魔法陣グルグル」も同じような印象を受けるのだけどそれはそのうち。

*3:ただそれが提示できるのも石田敦子という漫画家の特殊性で、詳しく分析できないけどあの何というか「問題設定への無自覚さと設定しない問題への無自覚さ」(かな?)はすごいと思う。