ソフト・トランスベスタイト/水人蔦楽「風と欅とかたつむり」

水人蔦楽の創作同人でのデビュー作とも言える『風と欅とかたつむり』(1994)*1は、当時トランスセクシュアルという概念すら一般的でなかった時代に、TSとトランスジェンダー、さらにはトランスベスタイトをきちんと分けて描くことで第3次フェミニズム的なセクシュアリティを示した驚くべき作品だった(この後、水人は同じテーマを商業誌であるTheフレンド掲載の「壊れる瞬間」で再度描くのだけれど)。高校の同級生だったKは僕と一緒に水人の作品や「Papa told me」を読みながら、大学に入ってから話すと「あれはファンタジーだと思う」と言い、その上彼女が出来ると服を借りて擬似女装体験をしたことを嬉々として話したりしてかなりの嫉妬対象だったのだけどそれはまあどうでもよくて、水人の作品で重要なのはその淡々とした陰りのない話作りと、少女漫画の中でもとりわけ「ぽやん」とした絵柄なのだと思う。
ところで、例えば僕が今着ている服はトランクスを除いてすべて女性物なのだけれど、そこにはトランスベスタイトに対して意識的なものとそうでないものが働いていて、例えばブーツカットの7号のジーンズを女性物の棚から選んだことは意識的なのだけれど、ウエストが60以下の僕が最低で73からしかない男物から選はない意志はトランスベスタイトに対するものではない。あるいは、TシャツをOLIVE des OLIVEの店で選ぶのは十分に意識的だけれど、メンズの店でTシャツ1つで2時間選んでもひとつも着たいと思う柄や色使いが見つからないのは、これはトランスベスタイト的な意識にのみ帰する問題ではない。そもそもカットソー・Tシャツ・ジーンズ・靴下・スニーカーというパーツのどこがトランスベスタイトかと考えると難しい。
サイズが限定されて、服を着るのではなく服の着られる身体として淘汰されているという問題や、メンズの図柄や色使いやデザインがどうしてもある割合のオトコノコには(例えば「普通」のオトコノコがスカートを着られないのと同じくらいに)「着られない」という問題はすべてトランスベスタイト的に解釈できるかというとそうではないのだけれど、もう一段階大きな視点として服飾に関するMTFFTMの非対称性があって、FTMトランスベスタイトがすでに政治的なレベルには存在しないのと同じようにはMTFTVの状況はない。例えば僕のワードローブにあるワンピース(膝くらいまでの短さで、ジーンズと組み合わせて長めのトップスのように着る)を知っている人の前で着たのは2回しかないのだけれど、1回目は大学の友人の女性と自分の高校(男子校)の文化祭を訪問する際に着て、その後会った元同級生の全員に関係を聞かれるという(男子校的)厭らしさを(男子校の外に出て初めて)感じた経験と、その際の自分の服装との奇妙な対比からは、やはり(意図しなかったはずの)セクシュアリティの問題を語ってしまう政治的なものしか感じられなかった。もう一回は大学の授業に着ていった時で、同期の女性に単純にファッション的に褒められたことよりも、その場にいた特に面識のない人経由で後に研究室の人にまで「噂」としてそのことが流れていたのを知ったことのほうにより強い印象があるという時点でやはり政治的だった(になってしまった)ので、つまりは僕はこのワンピースを一度も「個人的」に着られなかった(もちろん、これからまたその機会があるのかもしれない)。
そういう意味で、『風と欅とかたつむり』の凄い所はトランスベスタイトを独立して扱ったこと以上に、それをさらに非政治的な視点で描いた、いわば「ソフト・トランスベスタイト」である部分であって、ささだあすかに近いレベルのお気楽さとその絵柄で描かれるのはファンタジーではないにしてもかなり高い理想なのだろう。でも逆に考えると、「ソフト・トランスベスタイト」は『風と欅とかたつむり』のような「服装の様相」(男子学生が女子制服を着ている)で描かれなくてはいけなかったのか? 政治的なトランスベスタイトがすべてフェミニンなひらひらスカートの様相を持つという思考は、トランスベスタイトが決して個人的にならないという悲観と同等の認識の欠如で、FTMTVが政治的なレベルでなくすでに遍在している状況では、MTFTVの取る様相もそれに従った別の意味の「ソフト・トランスベスタイト」、例えば最初に挙げた僕のような様相(のソフトさ)が逆転して「政治的」となるのかもしれない。例えばトートバッグを選んだり、あるいは僕の時計が文字盤の径の小さい型であるようなレベルが、一般的に想像されるトランスベスタイトと同じ強度を持たないだろうか?
MTFトランスベスタイトがこれまであまり語られなかった(政治性を与えられなかった)背景には恐らくいくつかあって、例えば同性愛を想起させるものが未だに男性コミュニティから抑圧されていることや、ジェンダー的意識が未だにフェミニズム関係、さらには女性の問題としてのみ捉えられていること、一部の個人的な趣味やフェティシズムの一種としてしか考えられていないこと(さらにその理解に超えがたい壁があること)などなど。「ソフト・トランスベスタイト」的な意識はその辺りを超えて、(例えばトランスベスタイトへのハードルをFTMTVと同程度に低めることで)これまで政治的でありながら政治性を主張できなかった状況を解消したり、また逆に(例えば水人蔦楽の作風をファンタジーではないものとして信じることで)ワンピースを「個人的」に着られたりできるのかもしれない。『風と欅とかたつむり』ももしFTMTVの話だったら特に問題のない、あまり面白くない話になったはずで、その「問題のなさ」を個人的かつ政治的の両方の方向から達成することがこの作品の掲げたほんとうの「理想」なのかも。水人蔦楽の描くキャラクターの、ジェンダー決定に対する「積極的な曖昧さ」は確かに理想的というか、やはりささだあすかにあるような(id:sayuk:20030917#20030917f2)、その理想=奇跡がそれで「あり続けること」そのものなのだと思うのだけれど、政治的と個人的を積極的に曖昧にする「ソフト・トランスベスタイト」的意識にもそれは敷衍されるのではないか。*2
ジェンダー関係用語をたくさん登録されているid:chidarinn:20030005さんに感謝です。)

*1:手に入りにくそうなので詳しいストーリーを書きます(ネタバレしまくりです)。……女性としての意識があまりなかった女子高生・久凛は同級生の男の子に付き合おうと言われ、放課後一緒に帰ったりするけど彼の自分を女として扱う対応にどうも馴染まない。そんな時クラスに転校してくる蒔。女子制服を着ていた彼は実は男性で、他のクラスメイトは引くけど久凛は何か惹かれるものが合って彼に付き合う。「私にはそーゆー『女らしさ』は息苦しいと思うし、それをわざわざするのは理解できない」という彼女に蒔は答える、「私にとっては『男らしさ』が息苦しい」「『男らしさ』『女らしさ』ではなく自分がやりたいからだよ」。それを聞いて久凛は、自分が本当にやりたいことをやりたいようにやっているか考える…。しかし服装のため授業すら受けられない蒔。さらに久凛との付き合いを勘繰って蒔を校舎裏に呼び出した男の子の前に、久凛は詰襟服を着て現れる。「私は男でもない、女でもない、ただの私だ」そう彼女は言い、壁にぶつかっていた蒔にもう一度一緒に学校側に話に行こうと言う。……ラスト、大学生になった2人。「カタツムリって互いに放精して互いに受精する、つまり両性具有なんだよな。それでも対になるってのが面白いよね」なんて言いつつ、「私たちは互いの服を共有する生活を楽しんでいる」。

*2:そう考えると、(やはり「個人的なこと」だけど)例えば僕が大学の数年間真っ赤なダッフルコートを着続けたのは、「個人的」と「政治的」を(ジェンダーの決定に対する態度とシンクロさせて)積極的に曖昧にし続けようとするための無意識的な戦闘服(そう「戦闘服」という意識はあったのだけれど、その対象が判らなかったのだ)の選択だったのかもしれない。ひとつ前の冬とその前の冬にはそれを殆ど着ていなくて、この冬に着るのかどうかは判らない。