「シスター・プリンセス」の気持ち悪さ

またまたまた個人的な話。何度か書いているように男子校出身の僕は、しかし今までに何度か女性中心の(というか、自分以外全員女性みたいな)グループに在したことがある。少ないにしろ例えば共学校のある種の文化系クラブや大学の文系学科みたいな場で同じような経験をした人はいると思うし、その人たちにとってはどうだったのかは分からないのだけれど、僕の場合、例えば最近までいたグループの時は(その人たちが良い悪いとかいう意味ではなくて)座りが悪かった。その座りの悪さを又聞き知識しかないセジウィックさんとか使って「男性ホモソーシャル社会に依れない不安」とか分析したり、あるいはid:sayuk:20030921#p2あたりの議論を使って、女性的なコミュニティ(の解決法)への嫌悪感とか言ってもいいのだけど、いちばん最初に僕が思い付いたのは「これはアニメ『シスター・プリンセス』に似てる」っていう感想。
シスター・プリンセス」についてはゲームもやってないし雑誌連載も読んでない、アニメもRePureは観てなくて本編も途中の数回しか観てないという状態なので詳細な議論は出来ないのだけど、とにかくあのグループから僕はシスプリを想起していて、もっと言えば僕は日常でシスプリを体験していて、両者に感じる気持ち悪さは同質のものだった。別に12人いたわけでも毎日お兄ちゃん呼ばれていたわけでもなくて、というかグループの誰かと僕が関係があったわけでもない。じゃあ何故そういう感覚を持ったのかと考えると、やっぱり個人的なジェンダー決定への曖昧さがあったのかもしれない。
シスター・プリンセス」の「妹」たちが「お兄ちゃんのために」と色々と活動する(少なくとも僕の観た回はそんな感じだった)、その「お兄ちゃんの」が「ために」になる瞬間にその目の前からは「お兄ちゃん」はすでに消去されていて、一方で妹同士のコミュニティは強固に続いている(ように見える)、そう考えるとシスプリにおいても女性コミュニティにおける男性の疎外という状況は見えるのだけれど、感じたのはそういうただ単純な疎外とも違うという確信がある。たぶんそういうコミュニティへの距離の取り方で、僕自身に徹底的な不器用さがあるのではないか。普通の男性がそういうグループで男性的に振舞える所を、自分の場合はそのグループの割合の差、さらにはそれによる環境に騙されて、その上に自身のジェンダーへの危うさから(あるいはそれを意識的に利用して)そのコミュニティに入れるのではないかという錯覚(という形の無謀な企図)を起こしたのかもしれない。そしてその錯覚と現実との間の無数の揺り戻しに眩暈を起こしたのではないか。
シスプリにもう一回戻ると、アニメ版シスプリの特徴(連載およびゲームには無い点かもしれない)は1つはその人数比で、アニメは1つずつの回に必ずといっていいほど全員のヒロインが出ていた(例えば同種のゲームのアニメ化である「Kanon」などではそういうことは無かったと思うし、比率も大きく違う)。もう1つは攻略可能性で、ゲームや連載に比べてアニメはそれらの「アニメ化」という側面から、はじめから主人公の攻略可能性は封じられていた(これも途中を見ただけでの感想なので、実際は不明。もちろん1話1話であるヒロインがクローズアップされているのを「攻略」とする見方もあるかもしれない。ただそれは他の美少女ゲームのアニメ化に見られるクローズアップとはどこか違う、主人公の「攻略」への意志の欠如みたいなものを僕は感じた)。つまりアニメ版「シスター・プリンセス」の主人公は「お兄ちゃん」として特別視される(特別視願望の一時的対象にされる)ことはあっても、自身が「男性的」に振舞うことは想定されていなかった。一方で女性(というかこの場合「妹」)コミュニティに依する意識も能力も可能性も与えられていなかったし、対等性を持つにはあまりに兄−妹の比率差が大きかった。この辺りが僕に居心地の悪さ、さらには気持ち悪さを感じさせたのではないか。*1
この辺りの感覚を例えば「去勢された状態」とか「オンナノコになりたかった」とか単純化することはたやすいし、id:sayuk:20030903#p2の議論を使って、「父性の不確実性コンプレックス」から女性コミュニティへの距離感のゆらぎに酔いを起こしたと考えてもいい。あるいはさらに単純に、机上ジェンダーフリーの実践化の失敗でもいいのだけど、個人的にはあの感覚は去勢への忌避でも願望でもなくて、またもや自分の文章から引くとid:sayuk:20030906#p2の「もう1つのペニス/ヴァギナが形成する(あるいは既に有ったものを思い出す)」感覚に現実で出遭ったのではともう一歩先を行く仮定=錯覚をしてみたい。つまりあの気持ち悪さは、「美少女ゲーム的」でも「リアルの恋愛」的でもないあたらしいcommunication/confusionが発生する、してしまうことへの恐怖と受容だったのではないか。「シスター・プリンセス」はそういう錯覚を自分以外のある数の「僕」達に起こさせたはずで、それが結局は他のもっと強い刺激によって消化されたのか、どこかで燻っているのかはちょっと気にしたいかなと思ったり。(というか誰かシスプリアニメとジェンダーを絡めた面白そうな文章を教えて下さい。とりあえずこの辺りから読んでみます)

*1:もう1つ、12人の妹の兄であるゆえの「傍観者」になりにくい構造が自分の傍観者でない体験と相まったのかも。これがマリみてだと傍観者になれるのだけれど。