「モダン・ダイナマイト」羽山理子

「プリンセス」00年7月号掲載。やはり入手困難なのでストーリーを詳細に述べつつゆくと、「恋なんてしょせん利己的遺伝子のなせるワザ」と信じて「本能に従って」主人公の少女はぶっつけ本番でクラスメイト高柳くんに告白する。うまく受け入れてもらって、「こうしてお互いをパートナーとして認識した以上 利己的遺伝子的に正しく私が彼を確保したのね」と喜ぶ主人公は、しかしお互いの趣味や好き嫌いの違いに困惑する。「利己的遺伝子的には趣味や嗜好は関係ないもんっ」といったんは無視するけど、やはり不安さを見せて彼氏に「趣味なんか合わなくても大丈夫」と慰められたり(それをまた「(利己的遺伝子的には)趣味なんてどーでもいーのよ」と曲解するのだけど)。ところで、「いまだにキスにも及んでないのに幸せなんて変だよねえ?」と悩む主人公。「利己的遺伝子の最終目標は自分の遺伝子を残すこと」だから「そのはるか前の段階で満たされるはずがないのに」。「キスすればつじつま合うんじゃないのか?」という友人の言葉に彼女はコトに及ぼうとするけど(「私たちはパートナーなんだから キスどころか出産まで許されているのよっ」)、いきなりのことに困惑した相手から止められ、拒まれたと勘違いしてしまう。「求愛を拒否されるなんて」「行為に及べないということは 高柳くんの利己的遺伝子は 私を選んではくれなかったということ つまり私失恋したの!?」逃げ出しながら、「利己的遺伝子に従うなら さっさと次のパートナーを見つけるのが正しい」と思いつつ、「なんでこんなにくやしくて 悲しいんだろ」と思う主人公。「わかった 私は利己的遺伝子に従えない ふられたって私は高柳くんが好きなんだ」「利己的遺伝子なんかさからってでも 高柳君が欲しいのだ」と彼にキスしながら、「だから合意を得ない暴走なんかしちゃったりする」と呟く。「一方的にこんなことして」と謝る彼女に彼は「イヤなんじゃなくておどろいただけ」と再度キスで返す。「考えてみれば強姦なんて存在するのは人間だけね」を結論とする主人公。(終)
ものすごいトンデモ漫画っぽい作品だけど、『パラダイス・リサーチ』と比較するとこの作品は、「片思い→恋愛→性愛→結婚→出産」の三位一体構造を順行的に破壊してゆく内容と見て取ることができる。利己的遺伝子とはつまりは「出産のために片思いする」という三位一体構造の簡略化で、しかし趣味の問題などで悩む彼女はそこから片思い→恋愛の段階まで退行してしまう(片思い→結婚・出産の否定)。再度「遺伝子を残すこと」を目標とし、性愛のABC構造の端緒に向かう彼女はいったん拒まれ(片思い→性愛の否定)、「片思い→恋愛」の繋がりすら消えてしまったと思うのだけど、それでも「次のパートナーを見つける」ことができない。片思い(感情)がそれ自体であって、出産(遺伝子を残す)やセックスや恋愛で特権化されるものではない(両思いに至らない片思いにも存在意義はある、片思い→恋愛の否定)は、もう一方では(恋愛市場原理に支えられていた)売春と強姦の忌避でしかなかった「恋愛→結婚」の構造からラブストーリーを遊離させて、「すべてのセックスは強姦」とした旧フェミニズムに対抗し「でもすべての強姦はセックスじゃない?」(すべての恋愛市場に回収されない一方向的な恋愛感情は、それ自体の存在が(性愛に至らない段階においても)セクシュアルなコミュニケーションではないか?)と主張することで、非恋愛市場的なラブストーリーを描こうと試みる。三位一体構造を始まりとして、その最も退行した状態に最終的に至るこの作品は、だから「利己的遺伝子」を「恋愛市場原理」に置き換えても非常に良くフィットするし、id:sayuk:20030903#p2で言うような「父性の不確実性コンプレックス」を(「強姦が法的に禁じられているから恋愛する」オトコノコ達へのアンチテーゼとして成立することで)解体させる力を持っているのかもしれない。
やはりたった24ページで片思い→結婚という少女漫画ラブストーリーを上から順番に崩していったこの作品は、『パラダイス・リサーチ』と合わせるとたった2作で、少女漫画における三位一体構造やロマンチックラブイデオロギーといったものを順行・逆行の2つの方法で非常に周到な手付きで解体して見せたと思う。例えばこれにid:sayuk:20030904#p2やid:sayuk:20030908#p3、id:sayuk:20030910#p2の「性愛表現の稠密化・非特異点」や、id:sayuk:20030910#p1、id:sayuk:20030911#p1、id:sayuk:20031015#p2の「『正しいラブストーリー』からの脱却」(そういえば羽山の両作も最後まで「間違い続けること」がストーリー上の重要なポイントだった)、さらにid:sayuk:20030917#p1の「『動的であること』(トキメキ)としてのラブストーリー」辺りを加えれば、少女漫画における(フェミニズム的な意識を持った)ラブストーリーがこの10年近くでどのように変動・進化してきたかの一端が見えてくるはず。羽山理子はそういう意味で少女漫画の歴史の最前線に到達していて、非常に重要な作家だと思うのだけれど、単行本が出ていないため入手困難なのがほんとうに残念。「プリンセス」という少女漫画の中でもマイナー誌の掲載なので触れた人もわずかと思われ、例えば石田拓実津田雅美などのように「Cookie」や「LaLa」辺りに載っていれば、少女漫画ラブストーリーにおけるフェミニズム理論は5年は進歩していたかもしれない(褒めすぎ?)。どうにかならないものだろうか。


とりあえず、「少女漫画ラブストーリーとフェミニズム」という視点でこの日記で考えて書いてきたことはこの羽山理子で一段落します。今後も新しいことを考えたら付け加えてゆくかもしれませんが。