「かわいい」?/ズボンズからesrevnocへ

「かわいい」って結局なんなの? って再考するようになったのは6年前、ちょうどズボンズの1st「SUPER FUNCY OF ズボンズ」(ASIN:B00005EU5O)が出た頃で、rockin'on JAPANのインタビュアーが何度も「ファンシーってタイトルと相反してますよね」みたいなことを問い質してたことに対する違和感。今オフィシャルサイトの音だけ聴いてそう思うか分からないけど、確かに当時のドン・マツオやマツダイラ氏の宣言する「ファンシー」には説得力があった。それはペーパーに散りばめられたクマのイラストやマツダイラ氏の言及する「大島弓子」なんてタームにのみ還元される問題じゃなくて、そう確かに彼らは自分の音楽を評して言った、「こわかわいい」って。
「こわかわいい」? そんな不思議な言葉に似たものは数年後に全く別の場所で発見される。『魔法陣グルグル』の衛藤ヒロユキ氏に対するインタビュー(うーんネット上にあったはずが見つからない。ここで言及されてる95年のかな? 関係ないけどここの「初期さべあのまに絵が似てる」って指摘は面白いし、『ディスコミュニケーション』との類似も全くその通りだと思う)。
6年半前の僕は衛藤ヒロユキなんて未だに知らなくて、細胞生物学でいう「脱分化の場」なんて言葉を使ってズボンズを説明する。「交錯と混淆を繰り返す音楽ジャンルの中で『ファンシー』はある種こーゆー脱分化の場となっているんじゃないか」「そこに働く力は線形のものじゃなくって、濃霧に似たカオス的な『場』の力」「わたしたちは無意識に『ファンシー』ってゆう言葉を、革命の生起するシステムから、他方で気持ち悪くなる程の混沌性から、乖離させて考えていたんじゃないか」はい引用終了。id:sayuk:20030825#p3やid:sayuk:20030908#p1で言う「弱い力」みたいなのも多分こういう考えで、そうすると「かわいい」はすべてのマージナルな/越境的なもの、キッチュな/気持ち悪いもの、非線形的なもの、過剰な/欠如したもの、残酷なそして革命的なものという意味を僕は与えていたのかも。そしてそれらはすべて数年後に出会う衛藤ヒロユキに当て嵌まるのだけれど。
id:sayuk:20030827#p2で触れているような、僕がかつてズボンズしか潔癖的に嵌まれなかったのはつまりは他の音楽が「かわいい」で無かったからで、しかし漂着しなかったその意識はレイトアノラックの洗礼を受けて1年後にはついに別の「かわいい」に遭遇する。esrevnocなんて名前は知られてなくても、今でも曲は「あしたまにあーな」のオープニングで流れていたりするんだけど、問題はその「かわいい」が「かわいい」の衣を纏っていたこと。いや、でも問題なの?
かわいいには可愛がられるかわいいと可愛いかわいいがある」なんて『Papa told me』の思想を持ち出せばすぐなんだけど、esrevnocの登場ってまさにその闘いだったと僕は思っていて、でもガールズパンク的な出自を持つ彼女達はさらにその上の段階の議論を展開する。ギターポップからハードコア系の曲調、さらにアイドルポップ系のメロディ(そもそもボーカルのミッコ自体の声質が非常に特徴的なのだけど、あの声に潜むある種の(ハードコアから拒絶された)「気持ち悪さ」こそがesrevnocの「かわいい」を象徴しているのかも)までを往復するライブはかなり(「あしたま」的なものを予想したファンにとって)戸惑われたのだけど、例えば99年になされたインタビューはこんな感じ。

−−さっき最初はかわいいって思ったけど激しいっていう言い方をされるっていうことがあったけれど、そういう言い方ってなにかヘンじゃないかな?と思って、かわいいけど激しいっていうのはかわいいをバカにされやすい、あまり重要に扱われないもののような気がして、それって例えば「オンナのコにしては演奏が上手い」とかそういう言い方に似ている気がして。たぶん言っているひとは褒めてるんだと思うんだけど。
トモミ:わかる。やっぱね、差別されるのかな?って。
ツカダ:でも逆転してるんだと思う。じつは見たらかっこいいんだーというところが強いから、それがかわいいの効果になってる。入り口がかわいいかもしれないんだけど、頑張っちゃってる図が、こっちはかわいいつもりでやってないんですよ、こっちが頑張っちゃってるから、かっこいいんだけどその裏側にかわいいが一緒に存在してる。どっちが高い低いじゃないと思う。
(中略)
トモミ:オンナのコっていうだけで、オンナのコだけのバンドって少ないし、だから激しいっていうのは、かわいいだけじゃなくって演奏もできるんじゃんっていうことだよね。だけど、わたしたちが出せるかわいさっていうのは、誰にでもできることでカンタンにかわいいっていわれてるのじゃ、つまんない、うれしくない、見た目だけでかわいいねなんて言われても、自分たちにとってぜんぜん嬉しくなくって。

ちょうどかつてのフェミニズムが「働く女性という男性」を生み出していたようにガールズバンドがいわゆる名誉白人思想だった状況をesrevnocは正確に看破していて、だから彼女達の描く「かわいい」はちょうど第2次フェミニズム的な様相に酷似する。「かわいいけれどハード」じゃなくて「かわいい(こと自体)がハード」なんて言えちゃう音楽は他になくって(そういえばやっぱりPapa told meに「接続詞が全てを集約している」なんて話があったっけ)、だから僕は一見正反対に思えるズボンズesrevnoc(と衛藤ヒロユキも?)を同じ円周上にプロットすることで「かわいい」の解答とした。つまり、「かわいいけれどハード」という言葉はあのrockin'on JAPANのインタビュアーの貧しい認識と一緒だってこと。そういう、名付けるなら「かわいいフェミニズム」というような意識の発生は、かわいいが未だに可愛がられるかわいいとしてしか読み取れないような人々には見えない繋がりで、フェミニズムが女性の抑圧から女性性の抑圧の問題へと視点を移行したように、「かわいい」が「かわいい」の中に押し込められていた状況はそういう風にして解体されるのではないかと思うのだけれど、1stアルバム(ASIN:B00005G4QO)リリース、さらにデビュー一周年を経てesrevnocは徐々に迷走してゆく。その迷走が彼女達を「かわいい」と消費する視線との乖離にあったと邪推してしまうのはやっぱり達成されなかった革命への無念感かもしれない。しかし、その後の数年間で確かに音楽シーン(特に女性アーティスト)の意識は進化し続けているけれど、でも未だにガールズバンドや彼女達をめぐる視線の上には「けれど」の接続詞が浮遊したままなのではないか。だから今でも円周を達成する4つ目のはっきりとしたプロットは(もちろん、徴候めいたものはあったとしても)刻まれていない、刻ませないのは確かで、それは少し残念に思う。