「ファウスト」(4)/「強い力」と「弱い力」

id:cuteplus:20030907さんより引用。

これは極めて個人的な意見なんだけれど、アイデンティティの確立に失敗したまま現在に辿り着いてしまった男の子には、マッチョイズムへの欲望(サブカル的な自己表現)でポジティヴな空回りを続けるか、その欲望をネガティヴに断念するか、どちらかの選択肢しかないんじゃなかろうか、と思っていたりする。

例えば、佐藤友哉は今回の小説でも「弱さ」を繰り返しアピールしているのだけど、それは、自分の「弱さ」を肯定できないが故に、「弱さ」を強調しなければならないという捻れを抱えているためだと思う。断念しつつも肯定できないために、断面が剥き出しのまま痛々しく見えるのだ。もっとも、その空回りの結果が小説として生成され、同じようにボーダーラインにある人々の共感を得ている。前述の女の子たちはよく分からないけど。

自分が佐藤友哉を西尾舞城と比べてもあまり面白く読めないのは多分そのあたりで、そもそもマッチョであることを初めから志向していなかった人々(それはそれほど少なくないと思うのだけれど)なら、「弱さ」は断念の結果でも肯定すべきマイナス点でもない(う〜そう考えるとエヴァ嫌いなのもそのせいかなあ)。つまりは「いちばん弱くて小さくて可愛いものこそが世界を変える」という(たぶんesrevnocとかズボンズとかウテナとか少女漫画とかに裏打ちされた)考えがこのダイアリーおよび自分自身の基盤なのでしょう。(そう考えると、id:sayuk:20030825#p3で取り上げた「ヒナタ町日誌ムジナトラックス」(衛藤ヒロユキ)は「オトコノコが『弱い力』を手にする」という非常に重要かつ稀有な作品で、これが今単行本で読めないのは残念)
ファウスト」作家でいうと、何度も繰り返しているように舞城王太郎は「マッチョ」ではない(と未だ2冊+2作しか読んでない自分は期待する)。西尾維新戯言シリーズ)は作家自体はマッチョを志向しているようなのだけれど、「戯言使い」という概念がそのまま「いちばん弱いものが世界を変える」という考えに近似しているから僕は読めるのかも。
もちろん大多数のオトコノコは歴史的にか環境的にかマッチョを志向することを何となく選択しているわけで、このダイアリーの立場は小乗的なのかもしれない(まあそもそもオトコノコを救おうとも思ってないのだろうけどね)。いちばんの障害はやはり何度も繰り返しているように(id:sayuk:20030906#p2、id:sayuk:20030903#p2)、「そもそもマッチョを志向しないという選択をオトコノコは(生物学的に)できない」という「父性の不確実性コンプレックスで、とりあえずこの小さな乗り物にそれでも乗る人達のためにその辺りを整理してゆこう。