「のまれちまうぜシュガウェーブ」東村アキコ(YOUNG YOU10月号)/石田拓実

第3次フェミニズムが女性のセクシュアルな欲望についての自己言及を「許可した」ことは、多くにとっては(ちょうど80年代後半に岡崎京子が描いた「資本主義との遭遇」と同様に)戸惑いで、それは(やはり同様に)解放というよりは搾取しうる無防備な状態として機能したのではないか。90年代のいくつかの女性誌(「FEEL YOUNG」「CUTiE COMIC」など)で実践に移された際のそれはすでに「性的欲望の自己言及が(あるいはさらに『性的欲望』自体が)『カッコイイ』」に変容し、(ちょうど水着グラビアに付属する文章でモデルの精神的な側面が賛美されるように)内からの言葉ではなかったように見える。(もしくはやはり岡崎京子への誤解があって、彼女は描写をスタイリッシュにはしたが「あることを描くこと」をスタイリッシュにはしなかったはず)
自己言及は単純に自己言及で、性的欲望もただ単にそれであるとようやく描けたのは石田拓実で、最初の単行本「ベイベェ ベイベェ」(ISBN:4088487141)から一貫してヒロインは「バカっぽく」、その心理は生理現象的な「汚さ」(例えば恋愛の葛藤が便秘を我慢してる状態みたいにね)で描かれる。90年代後半に現れたいくつかの「女子高生文学」が実際は、理想化された、もしくは欲望された身体の代わりに「欲望された(理想化された)意識(性意識)」の形で現れるようにされた(それは例えば中沢けい「海を感じる時」や松浦理英子「葬儀の日」がただ単純に驚きであった頃とはもはや違い、「驚かせる」あるいはむしろ「驚いてみせる」ためのデビューなのだろう)のとは正反対からのアプローチで、決して欲望されなかったものこそがむしろ、本来の意味でジェンダー的に解放された自己言及なのでは。
それゆえに、いくつかの「スタイリッシュな」女性漫画が、結局はりぼん少女漫画的な「スタイリッシュな=正しい」恋愛関係というイデオロギーの構築やランク付けに終始したのに対し、石田の作品の基盤にあるのは「そもそもすべての恋愛関係は『まちがって』いるんじゃない?」であり、例えば短編「おとこともだち」の場合は(ネタバレ)男友達(主人公談:ていうか男女間の友情って成立するよねー)と思ってた人の彼女から泥棒猫呼ばわり、さらにその後彼から(付き合ってるつもりもなかったのに)別れよう宣言→なんですかこれ?そりゃ確かに何回かヤったけどさー(ここでツッコミ)みたいな。その意味で彼女の作品はid:sayuk:20030825#p2でいう「ロマンチックラブイデオロギー」と正反対の方向からしかし「ロマンチックラブ」を描いていて面白い。まちがいを間違い続けること、ある正しい(スタイリッシュな)恋愛の形・選択があって、すべてのラブストーリー(さらには現実)はそれを志向するべきという考え方を解体すること*1が、(id:sayuk:20030904#p2でも触れたけど)第3次フェミニズムが許可した「自己言及」を内からの言葉としてようやく生かすことのできる方向なのかも。
今月のYOUNG YOU誌に載った東村アキコの短編「のまれちまうぜシュガウェーブ」もやはりセクシュアルな欲望と間違い恋愛についての話で、はじめ何かの妄想のように描かれ、最終的には何かのロボットアニメのように戯画化された形で進行するその妄想は、その間違いをそのまま突き通すラストの結論でようやく正常な自己言及へと回帰する。東村作品は連載中の「きせかえユカちゃん」より短編の方が面白いように感じる*2のだけど、年末からはこのYOUNG YOU誌で連載が始まるようで期待が高いです。

*1:そう考えると、かつてのエロゲーの選択肢での「正しさ」が攻略キャラと一緒に行動する・相手の望む選択をする、だったのに対し最近のいくつかの作品がそうではないのもそれに近いのかも。

*2:例えば短編集「恋のスリサス」ISBN:4088563484、表題作がヒロインが男との出会いに「火曜サスペンス」のような妄想を仮託する作品でありながら、3つめの作ではその「火曜サスペンス」的な舞台を自ら設定しつつ、さらにそこに(もともとの物もあるけど)ストーリーテリングの微妙なぎこちなさが加わることで、流布するラブストーリーにおける過剰な作為性・演劇性をメタ的に解体しさらに再構築している(気がする)。