傷つけない性・傷つかない意志/宮野ともちか「ゆびさきミルクティー」

(実は現在の連載の方をちゃんと読んでないので、以下は単行本ISBN:4592134575〜6話についてのみ考えたことになります)
傷つける性』としての男性」(言い換えるなら「強姦する身体」)という考え方は、更科修一郎氏(「coco」誌などでのレビュー)が的を射ている。以下引用すると、

何故なら、フェミニズムの影響下に於いて、一般的なポルノメディアに於けるセックスの多くは、女性を凌辱・嘲笑することで、男性という役割を肯定する負の作業とされたのだが、それを常識とする教育を受けてきた団塊ジュニア以降の世代は、同時に、男性という役割は嫌悪すべきものとして刻み込まれ、男性であることをあらかじめ破壊されてしまった。

セックスだけでなくすべての男性側の「暴力」の行使においてこういうフェミニズム的な抑圧は働いていて、さらに重要なのはその規定された「男性的暴力」が全ての「男性性」に演繹されていたことだった。もう1つはこの破壊/忌避が必ずしもプラス点には働いていなかったことで、ある種の「フェミニズム的意志」はつまりは不特定多数の男性性を抑圧しつつ、特定の男性性を否定しないという「二重に去勢された」構造としてコンプレックスを発生させていたのだと思う。
僕自身が更科氏の議論にはじめ反発を覚えたのもそのあたりで、おそらく最初から「傷つけない性」(それは僕の中ではid:sayuk:20030908#p1で言う「弱い力」とほぼ同義だったのだけれど、多分その辺りに僕のエヴァへの嫌悪感がある)を選択した人は二重の去勢を受けていなかった*1id:sayuk:20030919#p2の議論に従えば、僕が理想した輪郭は(そもそも男性として輪郭を理想すること自体が難しかったのかもしれないけれど)身体的な能力の劣化を志向することによる「強姦できない身体」だったのだけれど(そしてそれはほぼ実現していると僕は信じていた)、5年ほど前にそれを表明した時の相手は半分笑いながら実現を否定した。「強姦は身体に因るものじゃない、意志に因るものだ」そう彼女は要約すれば言ったのだと思う。(あるいはid:sayuk:20030903#p2で言う「父性の不確実性コンプレックス」のことを言ったのかもしれない。フェミニズムが男性的な暴力性を規定したように、性的な欲望は生物学的に規定されてしまうのだ)
宮野ともちかゆびさきミルクティー」(ISBN:4592134575)は正直に言うと完成度が十分でなく、思想的な背景も十分練り込まれているとは言いにくいのだけれど、それを補えるだけのテーマの魅力があって、色物扱いでも無理な萌え対象化でもない(もちろん萌えるんだけど!)女装するキャラクターというだけでもそれは際立っている。それは多分、由紀の女装がid:macks:20030803#p2さんやid:mitty:20030907#p6さんなどでも「男性性(による暴力性)の忌避」として分析されているけれど、その忌避がそれほどネガティブな方向に偏っていないからではないか。1章で「心まで女になりたいとは思わないけど」と女性性への傾倒を否定しつつ、2章で黒川水面と話す際にはわざわざ女装するなど「男性性の欠如」をプラスに利用したり、また何度もひだりと「ユキ」として接触したりする行動には、女装をひとつの物理的かつ精神的な便利ツールとして扱う意識が読み取れる。id:sayuk:20030924#p2で言う「ソフト・トランスベスタイト」的な意識ともそれは近いのだけれど、一方ではじめ個人的な趣味に終始していた「女装」が、ひだりや水面と対することでもう少し複雑な方向に進んで行く。
例えばはじめ水面に対して「傷つけない性」として女装が選択されたはずが、3話ではその女装のまま無理やりに「傷つける性」としての行動を取ってしまう。一方ではじめからひだりに対して無意識に「傷つけない性」という距離であった由紀は、女装した「ユキ」として会った際にひだりの気持ちを告白されることで、逆にその距離の取り方を意識してしまう。この辺りを思想的な一貫性の無さと見るのも可能だけれど、「傷つける/傷つけない性」の選択とその行動が齎す結果が必ずしも同期しないストーリー自体は、一方ではid:sayuk:20030921#p2で言うような、フェミニズム的な意識が現実に行使されることによる男性的な困惑を描いているのではと思う。さらにもう一方では、フェミニズムによってかつて強制的に選択された「傷つけない性」が結果としては万能ではないこと、しかしその上でひとつの意志選択として描かれることで、「フェミニズム的男性性」という二重に抑圧されたジェンダー決定の選択へのコンプレックスを軽減させる役割となっているのではないか。その軽減によってはじめて、「強姦を想像されるかもしれない」しかし決して「強姦しない身体」として僕達すべての身体は輪郭されるのではないだろうか。
かつてのフェミニズムでは美少女ゲームのヒロインでさえも、物理的あるいは精神的に傷つけられ/搾取され/消費される性として規定した。「ゆびさきミルクティー」はこの辺りについても「矛盾」的で、はじめ主人公の男性性によって傷つけられないように接触された水面は、6話では自ら傷つけられるように振舞い、その通りに傷つけられる*2。一方でひだりとの関係(距離)は最後に至るまでも曖昧なままで、6話ラストのモノローグも両思いというよりは「傷つけない関係の維持」にしか見えず、もしかしたら次の連載はひだりを「ほんとうに傷つける」ことがテーマなのかと思わせる(少なくとも自分には)。それはむしろヒロインを一方的に傷つける物語ではなくて、ヒロインの「傷つかない意志」を描くものなのかもしれない。「ヒロインが性的に搾取されている」と物語を批判する視点(さらには、「傷つける性」として男性性を捉える僕達の視点)はつまりは、「搾取/消費されない」ことを指向する物語キャラクターの意志の存在を無視するもので、例えば『君が望む永遠』や『天使のいない12月』で描かれるのもそのような「傷つかない意志」の存在を仮定する(それは反転すれば「強姦の起こらない身体」なのだろう)ことによる、フェミニズムと男性性の関係の再構築なのかも。*3

*1:ただこの辺りの分離は実際には難しくて、フェミニズム的な意識自体が「傷つけない」というフェミニズム的抑圧の元に生まれたのではないかという指摘は否定できない。言い当てられてしまったことへの感情的な反発は大きくあると思う。

*2:本来この辺りは松浦理英子の初期作品(「葬儀の日」や「セバスチャン」)などで見られるように「傷つけさせる性」として描かれたのだけれど、その選択(自分が/自分をどれだけ傷つけてもよい唯一の対象を仮想すること)は極めて高度だったのだと思う。

*3:ここまで書いて、id:mitty:20030929#p4さんで自分の文id:sayuk:20030907#p2が「ゆびさきミルクティー」に関係しているという指摘を受ける。ええっ! 全然思ってなかったです。もし由紀が女装することで水面やひだりの考えてることをトレースしてるのだとしたらその手法も「間違い」なので、その間違いがまた作品を面白くしてるのかも。