『文壇アイドル論』斎藤美奈子/サブカルアイドルとしての岡崎京子?
『文壇アイドル論』(ISBN:4000246135)を読んでました。
「吉本ばなな」の章で、吉本ばななとコバルト文庫との類似性を誰も指摘してこなかったとあってびっくり*1。少女漫画(特に大島弓子)との類似性を書いた文を読んで、それは新井素子が2000年前に通過した場所だ!と忸怩たる思いを当時していたのはモトコニアンだけだったのでしょーか? あとがき文化にしろ、「コミックスの1/4スペースは新井素子以降の文化」とか検証もしないのに断言する自分とかにはむしろ当然すぎる指摘なのだけど(ていうか、斎藤美奈子のコバルト認識にもまた微妙な誤解があって、新井素子がコバルトをSFファンタジーへ移行させたって書いてあるけどそれはむしろ前田珠子のはず。新井素子はあくまで氷室冴子直系の少女小説的な立地で「宇宙の彼方」を書いていた)。
で、吉本ばななや俵万智が「新しい感性」と受け入れられてコバルト文化が無視されていた状況は、id:sayuk:20031009#p1で言う岡崎京子がスクープされてひうらさとるが無視されていた状況と同じじゃなかろうか*2、と思ってBSマンガ夜話のムック本vol.2(『pink』の回が収録)を読んでたら面白い記述。(ちなみにこの回には大月隆寛・香山リカ・岡田斗司夫・いしかわじゅん・戸川京子・高見恭子が参加)
大月:だから、女の自立みたいなのがすごくいわれたじゃないですか。それこそフェミニズム(注47)がすごく盛り上がってきたこともあって。その時のひとつの形、具体的にフェミニズムとかなんとかの言葉を、カッコいい女の子の見本を見せたというのはあると思うんですね。作品としてね。
香山:だけどね、その基本にあるのはすごくお母さんの問題とか、そういうすごく古典的な家族小説みたいなものじゃないですか。
大月:この人、ずっとそうだものね。
香山:そこから切れてないというのも、またね、私たちにとってはね、共感できる所なんじゃないですか。
『文壇アイドル論』で斎藤が、吉本ばなな・俵万智が受け入れられた図式として提示した「新しい革袋(文体=物語形式)に古い酒(物語内容)」というのにすごく合致した捉えられ方で、それ自体もびっくりなのだけど、もっと驚きなのは「注47」として大月隆寛自身が書いた「フェミニズム」への注釈。
(前略)今や頭でっかちの理屈女か、遅れてきたニューアカ・哲学系坊やのアクセサリーと化している。少なくとも、『pink』の主人公などは、フェミニズムの言葉など必要とせずに消費社会で自立できているのでまるで関係ない。
まさにid:sayuk:20031009#p1で言う、名誉白人というか「原初の男女的階級差からオトナ社会の別の「男女」階級に認識が移行しただけ」なんだけどちょっと置いといて、『文壇アイドル論』から引用。
たとえば篠弘は、『サラダ記念日』には「自然体のフェミニズム」があるといいます。
席を立つように捨てられたり、カンチューハイでの求婚をいなされたり、ボトルなみにキープされたりして、男の立つ瀬がない。さんざんな目にあうが、冗談めかして言ってのける諧謔は、特定の男にたいするよりも、爛熟した社会に向けられているように思われる。一九七〇年代からのフェミニズムの主張が、ユーモアをともなって、ごく自然に機能したものなのではないか。(篠弘『疾走する女性歌人』二〇〇〇年)ま、気持ちはわからないでもありません。しかし、いかに「男の立つ瀬」がなくても「冗談めかして言ってのける諧謔」で男は十分救われる。それでよろしいのであれば、フェミニズムとは、なんと安全で、無意味で、男に都合のよい思想なのでしょう。
(中略)
阿木津英は〈当時、上野千鶴子等の登場によってフェミニズムの波が盛り上がっていたが、大衆読者にとっては、これは、そのような自己変革の意志を促されることなくてすむ、“女子供”の復権なのであった〉とも述べています。こっちのほうが実態に即していたと私は思いますね。
「フェミニズムの言葉など必要とせずに」というのは、ちょうど(えーい、固有名詞出しちゃえ)松浦理英子に「君は美人なんだからフェミニズムなんてやらなくてもいいのに」って言っちゃう*3のと同じような感じで、そう考えると俵・吉本・岡崎の評価された90年代前後というのは、(やっぱり固有名詞出しちゃえ。本文中の固有名詞はすべてフィクションです)笙野頼子がデビューから10年間単行本を出せなかったあの時期と奇妙に一致する。それはつまり「フェミニスト」があの意味で捉えられていた時代と重なっていて、俵万智や吉本ばななは彼ら「フェミニスト」が理解し「頑張ったねー」と認めてあげられる「フェミニズム」として機能してたりしたんじゃないの?*4
大月隆寛が一方で「カッコいい女の子の見本」といいつつもう一方で「キミはフェミニズムなんかと関係無いんだよ」と弁護しちゃうのもそんな感じで、岡崎京子がサブカルチャーな人々に全肯定的に受け入れられている構造は、結局はオトコノコのお遊び的だった(今でもそうかも?)「サブカル」が彼女をそういう「御しやすいフェミニズム」と認定してしまったからではないか。ちょうど俵万智がそう捉えられたように、「オンナコドモの『かわいい』反抗」としてオトコノコたちが遠ざけつつ敬することができるような。さらに加えると、id:sayuk:20030910#p1で言うように、岡崎直系のレディース漫画家の(特にセクシュアルなものに対する)「自己言及」が、それを外から欲望する(オヤジ的な)視線とちょうど一致していたのもこれを補強する。つまりは予想したレベルで「驚いてみせる」ことのできる(さらには窃視的に欲望を満たせる)「御しやすい」放縦さ。岡崎京子自身はともかくとしても、彼女を巡る視線は結局はデビュー時の自販機本の頃と同じレベルだったのではないか。それがひうらさとるやそれ以降の「なかよし」作家になると無意識的に御しにくさを感じて、自然無視するようになってしまったのでは?*5
ということを考えて、ちょっと実家に残したままの岡崎作品を読み返してみようかと思います(この論はまだ展開途中なのです)。この話は大体どういうことかというと、
- なぜ岡崎京子(とその周り)ばかりが「90年代少女漫画」として取り上げられるのか?(「最前線の少女漫画」がせいぜいFEEL YOUNG止まりの認識なのはなぜか?)
- ではそれ以外の少女漫画の捉えられ方は無いものなのか?
- 結局「大島弓子」から現在までの少女漫画の流れは?
- オリーブ少女*6(=少女文化)が渋谷系(=サブカル・男性文化)に組み入れられる際にこぼれ落ちた物があるのでは?「Olive=岡崎京子」的な規定はそれを覆い隠しちゃうんじゃ?(id:sayuk:20031022#p1でいう「接続詞」の問題も関係ありそう。オリーブの話はid:sayuk:200309各所でさんざんやってます)
- つまり、サブカルチャーは岡崎京子の事故を契機に都合良く少女漫画(=フェミニズム)を「終了」させてしまったんじゃないの?
こんな感じです。こんな感じだったのか。
*1:id:pippuri:20030824#p4さんにも同じ点で記述がありました。やっぱり(文壇はともかく)読者にとっては当然のことだったんだ。
*2:ただし、コバルト文化は吉本・俵より過去なのに対して、ひうらは岡崎とほぼ同時かちょっと後という違いがあり。
*3:なんかそういう話が松浦・笙野対談でなかったっけ? 思い出せない…。
*4:引用部分の「爛熟した社会に向けられている」って大月の「消費社会で自立できて」にかぶるよね。つまりは男性個人の批判ならまだなんとかなるけど、「(男性が構成する)社会」を認めなくなっちゃうと困るってことかな? そうすると、例えば世界を新井素子化する小説(『……絶句』)やオンナコドモがオトナ社会を牛耳っちゃう漫画(ひうら)とかは荒唐無稽と無視されちゃうんだろう。
*5:そう考えると、吉本ばななの「少女小説性」も「文学」にとって88年においてようやく「御しやすく」なった「驚き」で、だからそれ以前にあったものなんて自然に無視するし、前田珠子以降ボーイズラブに至る「少女小説性」はいまだに無視したままになる。
*6:そういえば俵万智の短歌について斎藤は、広告コピーや銀色夏生・立原えりか(多分さらには「MY詩集」)あたりの短文詩が元にあるって書いてるけど、Oliveの「文学的な」キャプションにも源を辿れると思いました。